実体性を概念の内にのみ求めるということ。普通に実体と言うときの実体らしさというものをどこまでも自己否定的なものとして捉える。否定の極点に純粋な概念としての実体が存在する。概念的なものであればこそ、表現は、人間と人間との媒介者であり続ける。 実体らしきものがその本性自己否定的なものならば、概念の内にのみ実体は実体として安らうことができる。実体らしきものの最も実体に近いものは表現物であり、その恒常性は、例えば芸術等のような保存管理の形でそこに表現されることになる。実際に恒常的なのは、そこに表現される概念のみである。恒常的なものを、自己否定的な実体らしきもののうちに求めたいのであれば、それは人間の不断の表現活動の内に表れると言うことができる。実体の実体性は概念の内にあるのであるから、形のその形としての本性はただそのように「思われている」というところにあるのであり、その実際の極限自己否定の姿はただひたすらに原子的なものの内にあることになる。この極限自己否定が実際には物の物としての本性、すなわち人間の認識から離れて存在するものの本性であり、形を持ってしまった「物」は、逆に言えば人間の認識を、その存在の必要条件とする。人間が認識しなければその物はその物として存在することはできないのである。その物のその物としての物理的配置は、人間の認識を介しないのであれば、ただ物理学的にのみ決まり、したがって、その物が人間の認識できる「ある物」であるとき、それは物理学的には偶然そうなったとしか言いようがない。物の形は、そう「見立てられる」ことの内にその本性を持つのであるから、それは表現物として実体らしきものであることができるが、実体そのものではなく、その実体性は概念の内に担保されている。
だが実体は単なる概念としてあるのでなく、そういうものとして表現されねばならない、内にひと団子こねなければ純粋な概念というものがどこにあるのか誰にもわからなくなる。団子は団子でありながら同時に団子を超えたものとしてある。それはこねるものがそこに含まれて行こうとするからであり、全てを超えるものはここに世界と出会うのである。単に超えたものは存在すると言うことすらできない。団子をこねるにも脈絡というものがそこに常に付きまとっている。この文脈に絡まる糸は、世界中を結ぶ糸であるために、団子をこねることは世界をそこにおいて表現することとなる。ただし、これは単純に糸と団子という二項で説明できる概念ではなく、具体的概念は創造の現場そのものの内に人間的に存在していなければならない。糸と言っても静的関係としてのそれと言うよりも、実際の表現行為は脈打ったものでなければならない。
参考
田口茂「媒介論的現象学の構想」
https://heideggerforum.main.jp/ej9data/taguchi.pdf
12/10アクセス、参照。