山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

ワット(W)ってなんだったっけ。水の流れの比喩から考えて復習。

※思考の過程をそのまま書いただけのものですので、間違いを多く含んでいます。なので間違っても勉強の参考にしないでください。あるいは人間の普通に考える道筋とはこんなにも多く誤解を含むものなのだということを体験できる文章となっております。おそらくは、電流などについて理解できない素人の素朴な疑問を集約したものとなっているはずです。そういう意味では参考になるかもしれません。誰かわかる人がわかりやすく解説してくれればいいのですが。





閉じた水路があるとする。水路のある地点で、水が時間ごとに流れるその量を観測する。水圧が仮に1であるとき、1秒につき1リットル水が流れることがわかった。ここで水圧を2に上げたとしよう。このとき、1秒あたりに流れる水の総量は2リットルであることになる。ところが、この二つの場合において「水路全体」の水の量は変わりがない。この場合の延べ通過水量の単位を仮にワットとでも呼んでおこう(L per s)。ここでは時間あたりの水量が1ワットから2ワットになるという変化が起こったことになる。それはこの場合もっぱら、「水圧」の変化によるのである。

次に、この水路の流れる水の量を2倍にしてみる。例えばこれは、水路の幅を2倍に拡張してやるなどという手段によってである。このとき、水圧1であるのに、1秒ごとに流れる定点における水の量は2リットルであることになる。これでさらに水圧を2にしてみるならば、1秒ごとに流れる定点における延べ水量は2×2=4ワットであることになる。話は前後するが、さきほどの段落で述べた局面において得られた2ワットと、この段落において述べた局面で得られた2ワットは、要は一定時間あたりの定点における延べ水量は等しいことになる。前者は水圧を上げたがために、後者は水量を上げたがためにともに1ワットから2倍の2ワットに変化したことがわかる。この両者の尺度は「掛け合わせ」の関係であることがここからわかる。

水圧が一定ならば、総水量が、ワット数を左右する。水量が一定ならば、水圧が、ワット数を左右する。事実上、水量があって、それが全く流れない、すなわち水圧ゼロであるということは、この場合考えないし、考えたとしても、要するに定点における通過水量はゼロとしてカウントされるだけであり、これは「水量」というワットに至る主要な原要素が存在しながら、全く無水、枯れ池であるときと同じ水的扱いを受けるということが、考えてみれば少しややこしく、心情的にはおどろかしい。お堀のような閉じた回路にして水流が全くないという状態は、このような「水力」にとっては、全くの無意味、無、として扱われるのである。せめて水力化への可能性、潜在性ということを、この状況においても諸氏には汲み取ってもらいたいものである。しかし私がここで発想している回路は、実働する回路であるから、水流がゼロであるなどということは考えない。電気の量とは、単にそこに停滞してある固体的な量ではなく、流れてこそ、定点を通過する延べ量としてこそ、おっと、「水力」の量として意味があるのである。ワットという水力、においてはゼロになるものでも、その要素を見てみればゼロではなく、お堀の水のように充実した内容を持っているというようなことがある。これは掛け合わせの要素にゼロがあるために起こるマジックである。逆に水圧のみがあって水のみがないなどという状況はそもそも考えられない。故に実体的には水量という尺度の方に、水圧という尺度よりも、分があるのである。

このように電力量というのは、実体の量を言うのではなく、関係によって生じてくる量について言われるのである。

今回はそんな中学校の理科の復習でした、以上。






9/12追記:

水路の定点の周辺のみを、2倍の幅にすれば、それで見かけの水量は上がるのではないかと考えることができる。つまり、全体の水量をほぼ変えずに、水量(アンペアと言いたい)を変化させることができるという反論が考えられるのである。これについてはいかに考えるべきだろう。

定点付近のみを2倍幅にした水路という状況からして、水の流れ方はどんなものになるかということについて想像してみよう。この水路に変更する前と同じ水圧を総体として保ったままこの水路を循環させてみるとどうなるだろうか。つまり圧をかけるのに同じエネルギーをここでも使うとどうなるだろうか。当然ながら、水量がわずかではあっても、多くなっているので、そこには水の流れの停滞が生じると考えられる。すなわち定点において、前の場合と同様の「水圧」が欲しければ、圧をかける全体のエネルギーそのものをそれだけ増やしてやる必要があるのである。もし水路全体が均一に2倍の幅となり、それに合致する水量を流したとして、定点において前の場合と同じ「水圧」を得たければ、結局は総体としては、2倍のエネルギーを必要とすることになる。それは子供と力士の関係のようなものであろう。同一水圧であるということは、必ずしも、圧をかけるためのエネルギーが同一であることを言わない。むしろ総水量に応じて、それに見合う必要な同一圧のためのエネルギーは、その都度異なるのである。

少し遠回りの思考であったが、こう考えてみると、実際「定点」におけるその都度のアンペアが、電流であると言ってよいのではないか。つまり私のこれまでの考えは誤りで、水路における水の総量がアンペアであるわけではないということがわかってしまった。ここでアンペアと言ったものは私がさっきワットとして定義したものと同じであることになる。これは重大な間違いである。確かに、無限に長い回路というものを考えても、そのうち様々な地点の「定点」において、ある一定の限定された量の水流がそれぞれ存在しているということが言え、回路が無限に長いからそれに伴って水流が無限の値をとるということにはならないのである。

水流だけが一定で、水圧のみが変化するということは考えられるだろうか。つまり定点において流れる水の量を一定にしたままで水圧のみを変化させられるだろうか。そんなことをすれば、定点における水流も、それに伴って増減するのではないかと、私には素朴に考えられる。そこで私は水路全体の水量ということを発想して、そこにアンペアの定義の根拠を求めたのである。しかしその考えは間違いであることがわかった。なぜなら、繰り返し言うように、アンペアとは定点において一定時間に流れる水量だからである。かける水圧を強にして水流を「一定」にするようにすると、そのときだけ例えば水路の幅をその部分だけ「絞る」ことによって、より少なく水を流す必要がある。それであってはじめて、水圧によらずに水流が一定であるというあり方を実現することができる。

それとも、一定の水流があるなかで、水流をそのまま同じ量に保ちつつ、その「圧」だけを変えるというあり方はそもそも可能だろうか。私はもともと流れる水の速さをすなわち水圧として発想したがために上述の問題にぶち当たったが、もしかしたらそのようなことは可能であり、そうであるからこそ、A・V=Wということが可能になると考えられる。しかしそれで片付けてしまえば私の考察、すなわち水路の水流に結びつけて考える直感的な考え方は完全に瓦解してしまうことになる。水量を増減させないで圧力を増減させるという考えは、物理学的には正しいながらも、私の直感にはどこまでも合わないものとして存在することになる。故に私はA・V・=Wという考えを理解することができない。ただそういうものだと教えられ、計算するということしかできないことになる。これは納得が行かないのである。

要するに私がわからないのは、水路の水流において「電圧」にあたるものが何を指すかということについてである。電圧が速さによって考えることができないならば、その圧力とは一体どのようなものなのだろうか。それともやはり電圧が高圧になればなるほど、そこに流れている電気を「絞って」、アンペアが一定になるように操作するという手続きが、例えば1A・1Vと1A・2Vすなわち同電流間の異電圧の関係において存在するのかという疑問が生まれる。同じアンペアで、ただ電圧のみを操作しようとするとき、アンペアの側には特別の工夫は必要でなく、ただ単に電圧の側をいじればよいのか、それとも電圧を上げればそこで何もしなければただちに電流も多くなるということになるのであるか。それともまた、電圧のみを変化させようとすれば、電流が「絞られる」現象が自動的に起こるようになるのだろうか。実際電圧につられて電流が自動的に増減するのなら、これらの間の関係は掛け合わせの関係ではないことになり、それ故にこのときワットという単位は成り立たないことになる。これら両尺度はそれぞれ独立の観点である必要がある。現時点考えられるなかで最有力なのは、最後に挙げた、電圧の上下に伴って自動的に電流の「絞り」が生じて電流が電圧に依存せずに一定に保たれるように働くという説である。これは水路の例から考えて、いささか直感的には不自然なあり方となるが、電気とはそういうものなのだと言われればもう仕方ない。そういうものなのである。

どなたか、こんな私にもこの疑問に対してわかりやすく説明してくれる人がないかと切に思う。

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話は二転三転する。この問題は水路の例によっても考えられることであった。よく考えると、水路において一定の「圧」をかけたまま、水路の幅のみを狭くすると、それだけで水圧そのものは上昇することが想像できる。仮に横縦2×4の水路と1×8の水路を考えてみる。後者の細い水路の方が、水に一定の圧をかけたときに、より高い圧力で水がそこを通り定点を通過することがわかる。この両者において水の体積は同じである。またここで同じ圧をかけているのだから、水がこの両水路を通過するための時間は等しいと考えられる。このように考えるならば、水量は一定でも、水圧のみ変えるというあり方が可能であることになる。私は今まで一体何を考えていたのであろうか。尺8の速めと尺4の遅めとでは、結局総体的な通過時間は等しくなるではないか。

ここで、反論としてかかげた最初の疑問に立ち返ってみようと思う。これに関しては、そもそもアンペアというものが、水路全体の水量に関してでなく、定点を単位時間あたりに通過する水量について言われるものであることを認識することによって、霧消することになった疑問であった。この疑問においては、水路全体の水量を変えずに、アンペアを変化させようとして考えたのであるが、そのようなことは可能である。それはズルでもなんでもなく、定点を通過する単位時間あたりの水量こそがアンペアの本質であるので、水路全体の水量が1であれ100であれ、一定の状況を定点の周辺において作り出せれば一定のアンペアを得ることが可能である。そしてここで水圧を強くし、しかもアンペアを同一に保つには、要は水に速さを持たせるために、より細い水路をここに導入すればよい。そこに一定の圧をかけていれば、細い水路においても、元の水路においても、水路の体積さえ同じであれば、一定の時間にこの一定の基準水量が通過し、つまりアンペアとしては同じ値を得ることができるのである。これがアンペアを変えずに、水圧を強くする方法であった。

以上で、私自身の疑問は解消されたであろうか。また何かあったら、その都度考えてみたいと思う。今度こそ、中学校理科の復習でした。

俳句もどき

視界の隅にはどんどん世界が展開してゆく





これは、夢の中で気づいたことに関しての句?です。目の隅にちょちょっと見えているものが、実際の事実と関係なく、私の妄想に色づけられてどんどん一人歩きして展開してゆくことに興味を持ちました。という体験を夢の中でしました。本当はその前段階の夢があってその文脈からなのですが、ちょっと説明が難しいのでその辺に関しては割愛します。

我思う、故に我あり

理念的にのみ実体的である。我思う、故に我あり。疑うことにのみ普遍性の入り口が見出される。理念的にのみ普遍性は実体であることができる。表現というのは、その中間にある。表現することによって疑い得ないものそのものを掴むのではなく、疑い得ないものへの入り口をそこに開くのである。実体化しないことをもって実体とするのが表現の立場である。それは疑いの全体的事実である。疑いそのものの実体である。故にこれを確信と言う。確信は、それとして掴めないところに、それとしてある。

異多なるものについて

同一があるなら、同多もある。世界が同一というなら、その世界は同時に同多なのである。同というよりも異と言った方が適当かもしれない。一とは、一なる方向に収斂し、そのゆえに一つの単語によって言い表すのがふさわしいが、同多などと言うとき、これは一つの単語によって言い表すのは適当でなく、無限の発展の活動そのものを指して言われるべきである。もっともその場合でも、結局は「一つであること」の理念に対してそう言われ概念的に括られるのであるから、尚不徹底である。このことを正当に考えるためには、同一という言葉を発せざるを得ないその発端となる、同一でないあり方、収斂すべき多様のあり方を正しく把握することが必要である。すなわち同一ということが語られるとき、同多なるものは常に無言として、意識されることなく、しかも確実にあるものとして論理的には考えられ、また非意識的とは言えど扱われていなければならない。非主題化のみによって可能な主題化というものを、この同多なるものにおいて言うことができる。ヘーゲル哲学が論理的に徹底していないと西田幾多郎に批判されたのは、この同多性というものの、非主題的にのみ措定可能である性というものが考えられておらず、そのゆえに、理念的には同多なるものも同一へ行くものとして考えられたためかと思われる。同多という主題化の仕方が、すでに、全一的包摂の論理の独断の上に立っているということになるのである。だがそれでも理念的には、異多なるものはすでに一なるものとして論理的には触れられてしまった以上、一なる方向への包摂さというものはすでに避けられなくなっている。異多として主題化すらされないという分かり方は、どうも東洋的なものの分かり方であるように思われる。それを表す言表はもとより体系を志向していないように思われ、現に少なくとも日本にはこのような論理に基づいた体系的哲学は発展しなかった。真の異多とは、などと問題にされる時点で、それはすでに異多ではないということであり、かといって異多の自覚がなければ異多なるあり方も存在せず、結果として同一ということすら存在しなくなるのである。同一というものは始めからあるが、論理的にこの始めなるものに先立つものとして、しかも同一というものが始めなるものとして立てられることによって、異多というものが存在すると規定しなければならない。これは、一というものが数の始まりであるが、しかも論理的にその前提としてゼロが考えられねばならないということと同様であり、しかもゼロの自覚的発見は、一なるものよりも後に来ると考えられ、その故に、このゼロの方向にあるものをより創造的に深い総体性の潜在態として見ようとする眼差しが生まれるのである。2進数における、1、10、100などというようにゼロを用いることによってより深い数の広がりを与えることができるという直観は、一なるものが常にゼロに回帰することによってより創造的に質的に大きくなるということを把握したものと考えられる。単位としては普通に使われていても、それのまさにそれ自身としての、すなわち根源的ゼロそのものの自覚が、各々の数の自覚に遅れて出現するというのは、創造性というものが一般には使われることのうちにあり、主語的に概念化されることのうちには、通常ない、ということから来るものと思われる。ゼロそれ自身を、「使われているところ」から切り離してあたかも製作物・表現物であるかのようにそれ自体として主題化するというのは、よほどの深い創造的歴史的局面を必要とする。それだけの機が熟してしなければそれは自覚化不可能なものと考えられる。ただ主語的なものが自己実現するための無意識的な媒介としてのみ意識されるものそれ自体を主題化するということは、理性の確定、人生というものの局限の確定を意味する。それは一面絶望であるかもしれないが、しかしそれは与えられた人生を一つの作品として公に共有する権利を与えられたということであり、生命そのものがゼロを超えて更なる質的飛躍のゼロへと至ることであるのではないか。今ここでゼロを超えたゼロとして言ったものは、観念的に、論理的にただ発想したものであり、それ自体が何であるということは、筆者自身もよくわかっていないが、ゼロの自覚というものは、あるいはゼロ的なものの自覚というものは、真のゼロがまた創造的裏まわりすること(意識に対して)と考えられる。意識がゼロであるにもかかわらず意識としてその根源性において主題化されるのは、真に創造的なものがその奥にあることが直観されているからである。本質直観の哲学において、つまるところ意識は意識として本質直観されているということになるのであるが、ここにおいて真に創造的なものは裏まわりすることになるのである。意識が意識として本質直観されているというレベルにおいて、意識の根源性が語られるならば、要するにそういうことが言われねばならない。意識概念は、常に対象をどのレベルにおいて見るかによって、それ自身の深さが測られねばならない。本質直観という概念からは、要するに根源的な意識概念として、そのまま本質直観的なあり方に行き着くのみであり、しかしそれが真に創造的でないように思われるならば、我々はすでに新たな立場に立っている。かといってそれを単に主題的に掴むときに、ヘーゲル哲学の行き止まり、論理的独断に陥ることになる。本質直観をあくまでも本質直観として、根源的なものは根源的なものとして譲らず、あえてより創造的なものを主題化しないところに、異多論の真の狙いに結びつくところがあり、私は本質直観の哲学に、そうしたどこまでも真の根源を探さない、まさしくエポケー(判断中止)という立場そしてそういう道があると考えている。現象学現象学の基礎を保ったままに多様に発展するのには、それだけの哲学的含蓄があると考えられ、結果として主語的には未熟な対象概念の立場にとどまるとしても、真のゼロの創造的含蓄(これはどこまでも非主題的であるのだが)がその哲学的立場の創造性・可能性を保証している。このように、同一・統一と同時に異多・散多という方向が考えられるのである。もっとも異多というものを、それとして主題化して哲学そのものの基礎としてしまうならば、それはヘーゲル哲学の誤謬として西田にみなされた道に入ってしまう。西田においてゼロは自覚化されたが、常にそれは体系の根底と言うことができながらも、むしろそれは、脈として現れては消え、消えては現れるというようなものであり、すなわちそれは石造りの体系を前提したものではなかった。西田の論文において、定型的なフレーズが、多くの場所において、その時々にひらめくようにして繰り返されるのは、真のゼロの脈動性から理解され、そのようなあり方を見せることで、かえって主語的には定式化できないということを主語的な場所において、分裂的に示したものと考えられる。この分裂をおそらく矛盾的自己同一と言うのであろう。

悪意とは何か 2

いかなる人にも感情、内的広がりの自由は与えられており、どんなに不幸な境遇にいる人にでも、内感の自由は何をどうしても剥奪できない。

はずなのであった。

どうも霊的全体ということを見るならば、実際はそうでもないみたいなのだ。

しかしよく考えると、内感の剥奪というものは、教育というものの基本ですらあり、正直な感情を抑え込み存在しないものとして扱うように我々のほとんどは育てられてきている。そこにきて私のような内感に素直な人間が、物理的にではなく霊的な領域から内感の領域を剥奪されるのは、むしろ不自然なことではないとも言えるのだ。現にこれを書いているさなかにも、次々に言いたいことが出てくるのだが、その言いたいことが出てきた先から、彼らにとってそれを言われることが致命的であるようなものから順番に、内感の剥奪として、何を言わんとしていたかを奪い、何を言おうとしていたのかがわからなくなる状態となる。それに対して心底の怒りが湧き上がり「かけれ」ば、直ちにこの感情を、霊的領域経由で、封鎖してくる。

どんな人にでも、不幸を不幸として、現実のままに受け止める自由がある。それはどこの誰にも、物理的に、現実的に奪いようがない。はずなのである。物理的には。

しかしその実際というものはそうではない。洗脳というものが、この世のなかに、表面上は思考の自由を標榜しつつ、はびこることになるわけである。洗脳とは、洗脳と気づかれれば、そこで解ける。洗脳と気づかれないからこそ、それは洗脳なのであり、つまり内感というものを奪う働きが、実に気づかれない仕方で行われていることは、表面上自由を尊重していながら、その実質自己の思うままに人を支配下に置こうとする悪意によるものなのである。我々には内感の自由すら与えられていなかった。

私にとっての内感の剥奪とは、彼ら霊的存在が私の感情と思考の領域に覆い被さり、さまざまな、非私的なものを押し付けてくることであり、その根源的な悪質さは、とうてい文章から伝えることはできない。私は、綺麗事にかまけている人にはわからないが、先天的な魂の劣等性というものが存在することを、私自身の内的経験を通して、確信せざるを得ない。その確信が私をしてこのような文章を書かしめるのである。私の行いを魂の名誉を毀損するものとして見る観点もあろうが、実質そういうものではない、それはただの事実に過ぎないのであり、この度の大立て替えにおいて魂の選別が必要であり、永遠にそれら魂がそれぞれの領域に棲み分けられる所以である。 

いかなる人にも、実質的には内感の自由が与えられていないことが実質的にはまかり通っているからこそ、私のこの霊的領域における著しい思考剥奪感情剥奪も、現実の事実としてはびこり、霊という霊が私に悪意を向けてくるのである。だが真の霊の声は、そのような非自由な領域の内にはない。真の自由は実体的にではなく、創造性の内に掴まれねばならない。真なるものは語らずして、偉大なる雄弁者でなければならないのである。

自由に感じているはずのあなたの内的感情と思考は、たぶん、多くの場合あなたのものではない。それはある種のスピリチュアルにおいても指摘されていることである。しかし彼らの多くもまた、新たな洗脳者であることもまた事実である。人間にとって真の感情とは創造的にしか与えられないのだ、ということをもって私は私自身に言い聞かせるしかない。現時点で、そこにしか、すなわち感じる受動でなく、突き破る底からの能動性のうちにしか、自己が自己として安らう場所がない、いや端的に自己が自己として自己の感情を素直に感じることができない、という結論に至らざるを得ない。所与の感情領域は、文字通り与えられたものであり、その限り他者に属するものでしかない。私だと思っているものは私ではないということが考えられることで、私の受動的感性領域に与えられた不自由に関しては、一応合理化可能である。

しかし、そうではないはずである。本来、与えられた受動的感情領域そのものにおいて自由であるのが、すなわち不幸を不幸として味わうことのできるのが、人間にとっての自由でないか。それを指導するのが霊の立場であるのではないか。何を自ら率先して自分の首を絞めるような、意味のない不毛な想念剥奪などというガキでもやらないことをやっているのか。己らは何様のつもりであるのか。

先天的な魂の劣等性というものは、私がわざわざ言わなくても、確かに存在する。彼らに愛を、というのは、その劣等性を素直に認めることであり、しかるべき場所に、彼らを導くことであるはずではないか。と言っても、彼らは正面からそのことを言われても決してそのことを受け入れはしまい。建前として、全ての存在は自由であり、平等である。しかしその実際はどうであるか。

あなたは、このような先天的としか言いようのない劣等性を感じたことはないのか。私は彼らを死刑にせよと言っているのではない。ただ単に彼らが自由を奪わんとしている存在に対してそこから解放させ、彼らとその者とを没交渉にさせ、各々好きな領域で好きな体験をさせるようにせよ、と言っているに過ぎない。

感情の内的広がりの端的な自由の権利について、それが直接脅かされている現場そのものにおいて、悠長に愛だなんだと言ってられる暇はない。とは言え私にとって根源的なものは、そのいかなる働きに晒されようとも、ブレるものではないことは知っている。しかしそれを自虐的に徹底するなら、宇宙そのものが破壊されても根源なる無は残る、などという悪性の禅問答に至るのみであり、そうなればこの建前はとんちんかんな屁理屈に過ぎないことになる。

私は反応し、ただ書く。私の自由は、それも肉体的環世界における行為の自由でなく、霊的内的感情の自由ですら、創造性によってしか可能でないらしいということが、どうも私の置かれた環境からは言えてしまう。しかし自由として端的に考えられるのは、内的自由であるはずである。普通の人間にはその自由すら、実は与えられていないのであり、そのために真の自由を意識する存在の内感という直接実存的領域すら簡単に奪ってしまえて問題ないというような霊的雰囲気が存在するのである。我々は自由というものについて、もっと真剣に向き合わねばならない。知らぬうちに、我々の精神は、ねっとりとした自由主義の表面的な標榜において、兵糧攻めを受け、それによって殺されてしまうことになる。自由であるべきでない、という主義がはびこるのは、かえって状況に対して自然ではある。無論それは理想ではない。しかし悪を意志して悪であるところに善としての悪の働きがあるという日月神示の言葉があるように、それには未だ救いがあると言えばあるのである。

もちろん心的なあり方が自由であるべきかと言われれば万人が是と答えるであろうが、そもそもこんな問いすら起こり得ないというパラダイムが常識的であると考えられることから、私がここで述べている問題が生じてくる。それは誰がどうしても、もともと自由であるあり方以外考えられず、部屋のチリがただ単に存在しているように、意識すらされず、ただ存在しているものと考えられ、そもそも考えられることすらないのである。しかし現にこの領域での不自由というものが存在し、一つは偽りの自由主義による思念の兵糧攻め的汚染によるもの、もう一つは、私が現に接しているような、霊的な直接的働きかけによるものであり、この二つに大別されよう。前者に関しては、そもそもどんな不幸なことであれ、不幸は不幸と感じられるはずだろうという無反省に起因しているであろう。もっとも、先に言ったことと矛盾するようだが、このような発想がこの世界においてされないわけではない。洗脳というものの恐ろしさは誰もが知っているのだが、現状洗脳というものが、霊にも行き渡ったもっと根源的なものであり、心理的自由主義の標榜などといったチャチな思想によって本当の意味でそれは救えるものではないのだ。それについてもこの世界においての反省は、ないわけではない。だがそれが、霊にも届かないくらい、表面的なものにとどまっているということであり、だから依然として自由主義の思考停止は、無反省に、幅をきかせている。無論それが必要ないと言うのではない。ただ彼らには、真意が届かないのである。我々は、実に、なんと洗脳されていることよ。

本当に必要なのは、魂どうしの対話による改善などというチャチな事業ではなく、その棲み分けだ、という洞察は、日月神示において示されている。私もきっと私に見合ったところに自ずから行くであろう。そこに私にとっての根源的な救いがあるであろう。言葉ではわからない。拳で語り合わねば、いやそれまでしても、分かり合えないのが、魂と魂であり、それだけ、言葉で分かり合える魂と魂とは、奇跡的な実存なのだと言うことができる。

私は、素直に、私の私としての内感が欲しい。現状私はそこまで不幸とは言えない。しかしそれが、不幸と感じてはいけないからだ、ということがあってはたまらない。もっとも私は不幸を不幸と感じるなと洗脳を受けたわけではない。しかし真の不幸とはもっと微妙なものであり、言葉では捉え難いものである。*1霊の洗脳ということが、どうも私にとってのテーマであるのではないかと思われる。テーマの探究という形にこの問題を昇華できるならば、私は端的に幸福である。私の不幸は、いかなる言葉にし得る不幸によっても語り得るものではなく、しかも客観的には幸福であるようなあり方で与えられた、実に微妙な不幸である。このことを言語化できるだけ、まだマシである。そして言語化しないでやり過ごそうとした先ほどまでの私の、なんと不幸であったことか。不幸とは一般化できるものではなく、各々において純粋に個性的なもの、孤独なものであるからこそ、不幸を語る何者も、他者には、本当にはいないからこそ、私の不幸は誰かの幸せの糧になることができるのではなかろうか。私は宇宙から任じられて私固有の不幸を請け負っているのであり、他者にはそれがわからないからこそ、私の不幸は不幸として共有されず、むしろ喜びの種となるのである。あるいは怒りの種となるかもしれないが、そんなことは宇宙からみれば小さなことである。私は私の言表が正義であるとも思わない。ちゃんと返ってくるものは返ってくるだろう。しかしそれは致し方ないことなのである。全ての過程が致し方ないことなのである。

よくわからないが、私は、一般化されるあらゆる意味に担われたものにおいてでなく、ただ自己固有の与えられたものにおいて、恵まれている。この惠みは、私が独占すべきものである。こういうものを称して宗教と言う。それはただ私一人のみを救うものでなければならない。

*1:したがって、実質的には私は不幸を不幸と感じるなという洗脳を受けていることになり、それが明文的でないために、余計にタチが悪く、悪質であり、それが私を取り囲む霊的空気の実質だと言いたいのである。この点を忘れてはならない。善のふりをした悪というものはどこにでもあるものだが、そういう言葉にできるようなものではなく、この足元において、もっとタチの悪い悪質なそれが、存在する。何故に悪質か。私はこの一文を書いたときに、ある内的存在が「許された、承諾」のような念を出してきた。私は洗脳を受けていないと言っているわけではなく、もっと悪質な洗脳を受けたと言いたいのに、そのことを理解しようともせず、このような言表の布石であるに過ぎないものに対して、すぐさま実体的に了解してしまうその霊質のあまりの低さよ。私が彼らのこの念を承諾することは、私の魂にとっての著しい自虐を意味する。そういうものこそ、篩にかけられ、その悪が白日の元にさらされなければならない。私ははっきりと彼らのこの悪を断罪したい。何故に彼らはここまで無反省的であり、どうしようもなく幼稚であるのか。2024/8/18追記。