山中臨死境

なんか哲学と呼びたいものを中心として自己はみ出し

世界の「男性形」の相と「女性形」の相から

物理学的世界は、対象的にアプローチされるだけ、実際の世界そのものの全体というよりは、世界の男性形的側面を網羅的に把握しようとする立場ではないかと思われる。そして世界の女性面は、しばしば非対象的であるがゆえに、もともとそうした現れ方の傾向性を持ち合わせるがゆえに、そもそもが物理的ゴリ押し的に、網羅的に掴むことが困難である。しかし有益な化学成分を空気に撒き散らせば、おのずからそこに反応する一定の物質が、反応そのものから見えてくるわけであり、これは網羅的に一つ一つをタイマンから把握するというよりも、化学的な自己の引き出しからの組み合わせとその空気との調合との結果を参照しながら、複雑緻密にパターンを分析して、学問的に化学的な体系を作ってゆくのであれば、我々はある程度世界の女性形的側面に網羅的に迫れることになる。

物理学というものを男性形から考えたが、そもそもそれらをはじめとして化学や生物学等を含んだ自然科学の系列全体がまた世界の男性形の相と考えることができるのであり、これに対して人文科学というものが(特に心理学のようなものが)世界の女性形の相に迫るものとして考えられる。また学問一般というものが世界の男性形の相と考えることができ、それに対して芸術文化というものが世界の女性形の相と考えることができる。またなんらかの人間的公共的営み一般というものと、個人的感情というものは、それぞれ、男性形、女性形として捉えることができる。この場合個人的感情は、学問的に還元されてしまうようなそれではなく、全ての営みに沿って営みとは独立的に己の座を持つものとしての感情であり、それは常に無言なるものである。感情的言明によっても、それ自体を捉えたというのではないような、常にここにあり、ここに隔たってあるそれである。女性形の対象的極限というものの相を一応ここに見てとることができる。つまり全てのあり方は実は自己矛盾的にもともと男性形即女性形としてあり、この二つが実体として分かれるのは、表現を介した相対的概念的な捉え方にすぎないのであるが、ともかく概念として理念的に女系形というもの立てようとするとき、その対象面性を否定する別の面というものが概念的には必要である。これを従来の用語では述語面と言うので、さしあたって我々もこの語に従うことにしよう。さて、どこまで行ってもある種の現れであることのできてしまうものは、何らかの対象面性を持つとともに、そのものの於いて有る次元固有の述語面性を持つと言うことができる。このような非対象面的あり方を一種の対象面であるかのように概念的に分離できるのは、あらゆる現れがそもそも自己矛盾的に対象面即非対象面的だからであり、どこまで述語面的方向を遡ってもある種の対象面的把握がその次元に至れば存在し、このあり方が付きまとうからである。かといって単に対象面化するのであれば、もともと述語面としての意義も存在し得ないわけであって、したがって概念としてあくまでも次元それぞれに実在的な基底性を直接認め、そこにどこまでも概念的に独立したものとしての述語面性を認めなければならない。我々が次元を行き来することができるのは、行為的であり、時間的であるからであり、そのときどきに根源的なものに直接するとともに、自らのうちに無限の背景と含蓄を内的に有するからである。そういうことがあるから、各次元は各次元としての独立性を持ち、それぞれの世界は独立自存の文字通り一つの世界を自己自身によってなすものとして捉えられるのである。さて個人の感情として純粋化したものに至って、女性形の対象的極限の相を見てとることができると言ったが、たしかにあらゆる次元におけるそれぞれの述語面的ありようを考えてみると、それぞれに無言の言葉とでも言うべきもの、いわばその次元それぞれの固有の感情とでも言うべきものに、それらが糊付けされて存在していると言うことができる。それを対象化するとき、それは対象になってしまうので、純粋な述語面的「その数不問性」からは離れてしまって、ここにそれができるだけ純粋な仕方で存在できてしまう、ある還元先であるところの、対象次元というものが探され、そこにこれが当てはめられてしまうことになるのである。女性形というものをこのように対象化してみるならば、我々の限界のなかでは、個人の感情というものがそれにあたるのであり、それは先も言ったように、本当のところは、言明のうちには存在できない無言の言なのであるが、それが対象化されたことによって、それは述語面としての根源性を失うことになる。だからそこにおいて語られる根源性というのは、おのずから対象的なものとしての根源性ということにシフトしてしまって、個人の感情というものがあたかも心理学に還元されて理解できるようなものあるいは脳科学に還元可能であるかのようにも考えられてしまうのであるが、そもそもこの捉え方には論理を顛倒させているところがあるのであって、女性形的なるものの真の根源性はその述語面性において捉えられねばならないのであって、そこにはまず「その数不問性」をはじめとした、さしあたって我々がこれまで掴むことのできたところの実践的原則が当てはまっている必要がある。矛盾的自己同一ということも、現時点の我々にはこのような実践的原則の一つとして援用する方が、さしあたっての理解にとってかえって極めて有効なのではないかと考えられる。

では述語面性にはあらゆる対象性が無意味なのかというとそうではなく、それは対象性には還元できないというだけであって、実践的には、対象というものをどこまでも包んでゆくものとして、対象的あり方からは、内つながりのものとして捉えることができる。我々はそこに至る経路を見出せばいいのであって、その上でそこから先は音のない光のない場所である覚悟とその留意を忘れさえしなければいいのである。それで、最初に述べたところからわかるように、物理学的あり方にとっては化学的アプローチは述語面的に働くとひとまず捉えることができる。物理学的原理からすると、そもそも化学的結合の様式というものは、それ自体の単位としては全く意味を持たないものと純粋には考えられ、したがってもし物理学的言語を援用して化学的言語を語るということをしようというなら、それは要素と要素との結合関係のパターンをどこまでもパターンとパターンとのパターンなどとして分類して語ってゆくしかない。しかし化学的単位それ自身においてはそもそも生体なる単位が形成されるための基礎条件をみずからのうちに眼差しとして含んでおらねばならず、そして生体というものそれ自体というものを下の次元からはうまく語れないので、今度は化学的知識を援用して、パターンとパターンとの複雑な集合体として、最後は理性の妥当判断に頼って、生体ないし生命というものの定義を行う必要がある。その生体というものはさらにその上位の社会性というものを眼差しとしてすでに含んでおらねばならず、それはまた人間の歴史性というものをまとっていなければならず、またこのようにして個人の感情というものが、物理学的純粋ミクロにおいてはじめから眼差されていなければならないのである。なぜなら要素の集合体を、妥当な単位として判断するその行為の根拠がいかなる対象的要素にも見出され得ず、かえって要素の自己矛盾的な非対象性のうちに、すなわち、純粋ミクロがあらかじめ歴史的あり方を包んでいるという状態子的な概念からそれが見出されねばならないからである。ただしそこでミクロが歴史を包むというその仕方は、対象的なそれではなく、どこまでも述語面的にということであり、その具体的な形成過程をあらかじめ行為的に含意するということなのであり、だから我々の世界には精神現象学的な哲学概念が、具体的表現の形としてここに担保される必要があった。

物理学には実在そのものを目的とする純粋ミクロの物理学と、実践的原則を取り出すことを目的とする古典物理学があると考えられる。もと古典物理学から物理学というものは発展したが、そもそも物理学がはじめから純粋な仕方ではなく、古典的な仕方で成り立ったというその順番の意味を捉えることが重要であると考えられる。マクロな仕方においてむしろミクロを説明できるための実践的原理が取り出せるということは、我々が対象的にどこまでも実在概念を純化させていこうとしても、このような実践的立脚地を根源的に失わないということであり、それは我々が感情そのものと陸続きである空間と常に一つである場所においてのみ物理学においてさえの根本的実践原理を取り出すことができるということであると言うことができる。実際この陸続きのなかでも、原始的な、対象面と非対象面の分化というものはある。だがこのような分かれは、後の近代物理学における純粋な分かれにおいて見るならば、そこにはあまりに「思い」が乗りすぎていると言うことができる。なぜ我々は認識の恣意というものが、しかし近代物理学のような厳密な営みの実践的駆動力となるに至るまでの物理学的根源力を取り出す基盤となったと考えることができるか。認識の恣意というのは、いわゆる恣意的な認識のことではない。そもそも物理学的に成り立っているはずの生体というものが認識機構を持ち、あまつさえミクロの領域の適切な認識にその機構の機能がダブり得るということ、そのことが極めて恣意的かつ不可思議な事態であると考えられるということである。その驚きの有り様の統括者として適者生存のような原理を考えるにしても、すでに物理学から生物学へのミクロ単位そのものの乗り換えいわば跳躍があり、さらには適者生存そのものの根拠いかんと問えば結局は感情的な基底性というものを発想しなければ説明がつかないありようとなっている。つまり結局は感情というものがあらかじめそれ自身のうちに、極めて厳密な物理理論を包んでいなければならぬとともに、物理学的実在と考えられるものが、恣意的とも極端には考えられる感情的原理を包んでいなければならないのである。物理学というものが生物学や社会科学と結びつくことのできるその発端は、そもそもこのような古典物理学的基盤からであり、それをどこまでも離れ得ないからこそ、我々は生物学や社会科学を意味ある独立した学問として捉えることができる。我々の行為的直観的なる場所がいつでも、これらの諸対象に向かう態度に共通の基盤を与えるのであり、それらは根源的にはいつでも感情的なものに糊付けされている。その感情的なものを学問一般の基底という意味合いから我々は理性と呼んでいるのである。だから理性とはいつでも感情的基底を持つと言うことができる。感情的であればこそ、それは単に対象的に理性と呼んでしまってこれで終わりとできないものとなっている。それは例えば芸術においては表現的直観という形で存在していることが多い。物理化学的にはそれはエネルギーと呼ばれる。私は芸術的エネルギーと科学的なエネルギーを安易に混同するのではないが、そもそもそれらの間の対象的な厳密な区別性そののが述語面における理性エネルギーに基づいてのみ存在可能なのである。もっとも述語面的同一とは、対象的同一から見た補集合すなち矛盾的自己同一なのであり、それは対象的同一の形を借りて記述すれば、一であるとともに同時に多であるという性質を常に持つ。それを観点の違いによる一性と多性との棲み分けというような対象的視座におとして見ると本質的なポイントがわからなくなってしまうが、実践的にはとりあえず矛盾ゴリゴリを押し通して合理的な解決そのものをエイヤと拒んでみると、そこにおのずから解答が立ち現れてくるのである。一即多という言い方もあるが、一という方面に突き詰めた結果その奥行きすなわち原始含蓄というべきものを取りこぼしてしまうので、それはおのずから多ですでにあることになる、多にすぎないのであれば、それは一つの場所ですらないのでかえって対象的なものの地位にみずからを落とすという具合であり、結局はそれは多である時点ですでに一であるということになる。さりとてその間の無限反復の運動それ自体ということを考えたとしても、その運動それ自体の同一性というものがすでに、述語面的には一即多の様式となっている。運動の純粋対象面は絶対的精神なるものであるのだが、その述語面にはいつでもせわしなくしかしどんと構えた無限の水が存在している。この神液とでも言うべきものが、要するにあらゆるものの述語面としての感情として、「その数不問」的なものなのである。

さてここでは、世界の男性形と女性形の相という着眼点から、最終的に述語面というあり方そしてその「論理」としての旧来の論理から見た逆回性ということに注目して、感情というものが述語面的には理性として諸学問などを統合する場所であるということを論じた。あらゆる区別はそもそも区別と無区別の以前の場所から行われる。だからそれを補集合的に語れば、あらゆる区別は無区別から生まれるという矛盾的言明になるのである。無区別なるものの創造的自己展開運動そしてその運動無化という根源的立脚地の同時存在によって、我々の於いて有る世界というものは成り立つのである。そこから派生して物理学的実相そのものが個人の感情(ただしいわゆる個人の心理学的感情ではないが)を包む仕方でもともと自己自身を成り立たせているのだと言うことができる。またこれらに残した論点は、様々な派生的問題につながり得る含蓄を有しており、私のここでの記述は、さらなる新たな気づきへと哲学的に開かれていると思う。それを今後また汲み取り、再び記述として私自身も展開してみたいと思う。そのためのメモとしての意義もこの稿は持つ。

 

 

法則というものの詩的把握

法則とはあらゆる意味における結果であって、本質的にそれは帰納的なものではないか。法則と普通考えられるものにおいては、こうでもありうると考えられるが、こうでしかないと現実の結果なっている、というところから帰納的にその確かさが決定される。だがこうもなり得る(現実にはなっていない)と考えられるところには、いかに仮想的といえどそこに権利上の可動性があるわけであって、本当の法則というのはそうしたあり方そのものを包んで、その上で、こうでしかないと真に言い得るところの、自覚が決してできない純粋形式そのもののことを指すのでなければならない。言い換えると、人間理性で把握できるくらいの法則などというものは、いまだ真に法則そのものを掴んだのではない、カントの理性というものが実体化されて理解される所以である。カントの言いたかった真の理性というものは、いわばもっと切り詰めた崖っぷちの概念であって、それは形式として把握することのできないものでなければならない。崖っぷちと言っても、それは絶体絶命なる魂にいかなる課題が与えられているかというような実体的なものではない。実際には水がそこに流れているというようなことでしかない。これが崖っぷちであるとはいかに。しかし水は崖も側溝も、ものともせず、区別せずに、流れる。そこに存在の驚嘆すべき冷厳さと健全さがある。実際の結果というものこそが法則であり、我々のいわゆるところの法則というものが真の法則でないとすれば、いわゆるところの結果というものも真の結果でないことになる。真の結果とはもっと深く、またどこまでも浅く、水の流れるようなものであり、それは崖っぷちが絶対のクッションであるようなものでなければならない。ここで私がどこまでも疑うということが真の結果とは言い得るのであるが、私が疑うとして一般化してしまったものはすでに真の結果とは言い得ない。だから帰納ということも、ほんとうの意味では、したがって、できないものである。しかし現在は現在から現在へと行くものでしかないとしか思えない。これを指して法則と言うのであり、それは純粋経験という概念で本来示されていたところと同じである。その表現において心理学的色彩が残されたため、その哲学的な純粋化ということが断念された経緯はある。人間理性が法則に辿り着くというなら、それは人間理性がこれとして掴んだ対象的な法則ではなくして、そのような掴みの一切が可能になるところの、先験的形式のことでなければならない。ところがそれを、これ、として記述したとたんにそれは先験的形式の座を失う。それは要するに何度も言うように形式としては把握できない、言い換えれば内容というものが形式というものと分離して理解できない地平において直接、横超しなければ我々はそこに至り得ないのである。こういった事情は語彙の暴力とでも言うべきあり方によってしかつかみ得ない。少なくとも、人間が普通に頭を働かせて読める分量の文章としては、そうしたあり方をフルに稼働してしか、つかみ得ないものである。

ところで、権利上はこうはなり得るが、現実にはこうなっていない、だからそれは法則である、というのは、普通、どういうわけで特に物理学などにおいてそう言われるかと言えば、その一つの結果というものが、別の事象における結果と因果的につながっていて、その一つが、こう、でなければ他のその結果とつじつまが合わなくなり、かくして、全ての他の法則と全く噛み合わなくなる、ということからである。宇宙の物理において、素粒子の持つ諸々の力のパラメーターが少しでもずれていると、我々が認識する法則的世界は全部破綻し、我々のいわゆるところの宇宙というものは全く成り立たないのだ、ということが言われる。だからこそ物理学的結果における法則性の権威というのは、それだけ根底的だと考えられるわけである。ところが、我々がそもそも球は重力に逆らうとかいった、現象の物理的諸関連からある部分を取り出して、夢想した結果のこのようなあり方を、たとえ仮想的にといえど発想可能なのはなぜなのだろうか。それは我々の現象というものの本質的な直接的な観念性というもの、そしてその観念性というもののの最も原始的な物理性というものから来るものと考えられる。現象というものがどこまで純化していって概念化していっても、我々の前にあるのは端的な概念であることはできない、そこにあるのはただの現象でしかない。数学においてすら我々は一種の根源帰納に頼ってその概念に達せざるを得ない。それで我々は根源的に帰納的であり、現象的であらざるを得ない。ところが単に観念的というあり方も存在しない。現象がそもそもその底に物理的であるという発想を持つことができるのは、そもそも現象すなわち観念というものがもともと自己自身から自己否定的に物理的であるからでなければならない。ただしこの場合物理的ということの意味が問われねばならない。物理的でない現象もあるではないかと言われる。観念がそれである。しかしそれらも、いわゆる物理的現象も、結局は同じ根源的物理性に依るのでなければ、かえって全てを法則で覆い尽くす物理学的発想そのものが不可能である。要するに、球は重力に逆らって動き得るというのは、現象が現象自身に対して同一性即分裂的即写し的であるということが、その自己規定がもともとあるからであり、我々が真に法則と言うべきものを掴むには、こうしたあり方を全て包んでいかなければならないことは、物事の順番として、明らかである。このような仮想というものが、我々の意識がある限りいつでも成り立ち得るというのは、現象自身の既成事実性すなわちいつでも根底的には改新されることのできるパラメーター的なものであることの担保であると考えられる。そして我々は意識以外のあり方の現象というものは未だにいかなる形でも観測できていない。意識それ自身が意識性を否定するかのように振る舞うものを観測することによって、意識外のものを我々は知ろうとするが、そのような前提にある意識というものはすでに「意識された」ものであって、実際の意識それ自身を覆ったものではないことは、皮肉のようである。我々の真の意識というのはまさにここの間に存在するものであり、これを身体性と言う。しかし身体性といっても我々が普通に法則的に発見するこの身体というよりは、現象が原理的にそういう仕方でしかあり得ない、成り立ち得ない、現実しないというまさにここにあるそのあり方そのものであって、これには行為的直観という別の言葉も当てはめられる。それは時空の形式であり、因果の形式でもあり、認識の形式でもあるが、かといって形式の集合体に還元できるようなものでもない、いかなる形でも形式に還元できないものでなければならないとともに、全ての形式がそれからというものでなければならない。身体というものがあって、そこから法則があるというのでもない。法則的事態がはじめからあって、そこにすでにそれに先立つものとして身体性というものがあるのである。全て身体性とは、後から獲得されるものであるから、これを実体として全てに先だち立てられるものでもない。結局は身体性というのも帰納性から立てられる純粋な法則でしかないのである。それは一面演繹的であり、身体性の獲得からは、原理的に世界の法則的連関のあらゆる相が説明できる、それは幾何学と詩的表現とエロい妄想を全部一つにつなげまとめる唯一の機関である。詩的直観は一種の演繹から来る、しかしそれは詩人の直観的確信という形でしか現れ得ず、そこにおいてまさにこれが演繹的なものであったことが確信されるのである。帰納的な詩的事実というものは、何か詩的でないという感じがあろう。プロセスとしては帰納的に掴まれるとしても、原理としては演繹的であるというのが詩的直観であると考えられる。問題は帰納的現象を可能にする先験的形式であるが、それは詩の場合を考えればわかるように、形式的に把握できるものではない。

だが、身体性の時空間の形式的把握というのは、我々の共同体的文明というかその文明を成立させる世界そのものの成立の足がかりである。物理学はかえってここに向かっている、物理学こそ真に超越論的である。それは私が前に論じているように人文的表現レンジを拡げるものであって、かえって歴史的な意義を持つのが物理学である。それらは情報理論等を媒介して深く統合されるであろうという見通しを私は持っている。それを論じるには情報理論というものを学ばねばならない。しかしひとまず言えるのは、我々のこの世界いうものが把握可能な法則によって成り立ち、必ずしも真の形式を根底しなくともよい(というよりもそれはできないのであるが)のは、我々の意志の深い根底において深い詐略と叡智的配慮が働いているためと考えられる。この詐略の面を悪魔と言い、叡智的配慮の面を神とか天使と言うのである。天使と神を分けるならば、この統合原理を神と言い、神は善悪を超越したものであることになる。いずれにせよ真の神はいわゆる絶対神ではない。真の神においては詐略と叡智とは区別ができない。ただしそれは信において価値が変わる。結果の結果においてしか真の神は姿を現さない。結果をいつも善と信じる限りにおいて(そしてそれも一種の限定的形式ではあるが)、結果というものは結果と結びつき、本性と、我々には思えるものが、その姿を現し、表すことになる。あらゆるものが善の連関を持ってつながってくるように思える。その「思える」という予感もまた現象に含まれた現象内現象である。我々はこれを無理に概念化して閉じてしまう必要もない。だが神は最後に現れると言うことができる。限定的形式においても順番としては最後に現れる最初の存在である。それは限定的形式に居ればこそ、時間的な未来において訪れる地上天国的な世界の確かな予言としても顕現する。限定的形式と言えど真の形式すなわち形式として把握できないものを離れることはない。だから形式として捉える限り必ずそれは根底に矛盾を有する。矛盾以前というのもそこにおのずからあらわれる。法則というのはそのようなものである。

媒介論的哲学への四つめの眼差し

いかなる場合においても、動くということの一切は、世界をはみ出る事実となることである。法則に従って動くということは、あたかも法則なる世界原理に包まれた世界内事実であるかのように思われるが、しかしただの法則のなかには動くということは現実の現象として存在しようがない。それゆえに物理学的時間とはかえって無時間的な数直線または何らかの空間的意義づけのなされたものである。それは無限ということを真に開いた形で定義しようとしない。物理学は動くということを、強い仕方で、世界内に位置付けようとする立場である。しかし動くということが何らかの形であるということは、そこに常に初めてということがあるということである。そこには必ず存在の不可思議の驚きというものが存在する。法則とはむしろ決まりきったものでなく、必ず何らかの不可知的開きを持ち、そのときどきに創造的に発見される姿そのものにおいてその本体を矛盾的即一的にあらわにするのでなければならない。無論法則の全体というものを知ることはできない、人間は、宇宙不変の法則をただ部分的なアプローチから追いかけてゆくことができるのみであり、だから法則の発見はそのときどきの創造的なものなのだとも言われよう。しかし私がここで言っているのは、そのような発見的な仕方創造的な仕方にこそ法則というものの本体があるということである。法則は一面に不変ということと、また一面に創造的ということを含まねばならないが、このように考えるとき、不変ということそのものの意義が、より深く考えられねばならない。すなわち、不変ということは、常に創造的開きを不可知的に残すというあり方そのものから捉えられねばならない。私は前にこのような含蓄を述語的と呼んだ。それで、例えば或る物が動くということには、法則の一部であるという側面が含まれるとともに、そのような法則そのものを包んだ世界というものがまるごとそこにおいて表現されているという行為的原理が含まれていなければならない。そうでなければ、そもそもそのように物が法則的にといえど「動く」という具体的事実は存在し得ず、それは観測されたものといえど、観測ということ自体が、動きの現象そのものに対して包むものというよりは部分的なものの意義を持つのでなければならない。また、観測しなければ、動くものを法則的に捉えられないということ、同時に観測という行為が人間の思考活動という述語的ありように直接紐付けられて存在するということは、結局は観測というもの自体が常に創造的なものに直接しているということのかえって証拠となることがらである。物を法則的に包んで行こうとすること自体が、思考的なものを前提している。思考というものが、もともとある現象と法則に対して、追いかけてゆくのではない。もともとある現象という事態そのものが思考を前提するからである。真にもともとあるものとは、常に思考が現象に直接したそのあり方そのものでなければならない。すなわち法則があるということは、思考が思考自身の姿を見るということがそこになければ考えられないことである、思考というものが深く掘り下げれば無限の裾野を持っているという直観は、法則というものがその時々の発見的なものであり、その本体をどこまでも非対象的な領域において持つということを示している。結局は不変の法則ということも、技術的に観測的に確認され続けることによってのみ維持され得るのであって、そしてそんな行為抜きに法則は法則の座に安住しているというなんでもない直観かつソリッドな直観というのは、かえって我々の意志そのものの世界性の深い直覚から来るのである。意志に根底的に支持されて存在するからこそ、我々の思考という世界に対してメタ的に立つものが、世界にメタされているといつでも捉え、そのように認識ことができる、それは世界と我々が思っているものが意志そのものの個別的意志そのものを深く超える内的基底性の姿として存在するからである。かといって、意志的なものだから世界は観念的なものだと理解する必要はない。意志というものは、むしろもっと肉感的なものをさらに厳密に物質化したようなものとして捉えられるのである。意志というからそれは単に静的法則的なものではなく、動きというものを持つ。ただしその動きとは、主観的な無駄を持つ動きでなく、全ての法則に合致する普遍的動きすなわち我々の目の前のなんでもない動きの一切の現象というものがそれであり、何らかの意味で動くということがあるとき、それはすでにソリッドに我々の意志の基底の表現であるということになる。ただ単になんでもなく動いているものがあるということは、全世界に認められるということであり、それは我々の「世界をメタ的」なる認識の立場がさらに内的に含まれる真意志の立場がそれによって表現されているということである。何らの動きもない全体性とは単なる法則であり、それは現実の現象と何のかかわりも持たない。動きがあるということにおいて法則は初めて意味を持つのであるが、しかしそれは全世界的に全世界ごと動くということすなわち意志の基底ごとの表現であるということを意味するのである。まずは意志ということをこのようにフラットに即物的に、唯物論的に捉えるのが、この間の事情を理解するのに極めて有効であると思う。法則が意志的であるからこそ、法則は一面創造的発見的なものであり、また他面常に同一のものとして保たれる。ただしその同一さというものは、科学者の考えるような部分的数式群観測群などによって限定し切れるものでなく、常にその体系それ自身において不可知的奥行きを同時に持ち合わせた姿を持つのでなければならない。そのような不可知的基底によってのみ、言い換えれば意志的なものであることが理解されることにおいてのみ、それは不変的法則の端的な表現たりうる。

ものが動くということが世界をはみ出す事実であるということ、その卑近さということから、意志というものはただ深いものであるのではなく、もっとも尖端的な卑近な肌の近くにあるものであることがわかる。観測装置は自ら肌の近くにあることを標榜しながら、実際には知られるように機関を通すことによって、ミクロと銘打って肌から離れたものとして自己を成り立たせている、それによって肉感的でない法則すなわち物理法則というあたかも意志には関係のない静物の包摂体系が可能になっているのである。ところがいくら間接化しようと、必ず観測装置の運用にもそれを見る(1かゼロかを見るというのであっても)という具体的「動き」の過程が必ず含まれねばならないし、データをグラフ化するということそしてそこに法則性を見出すということは必ず動きを伴うものであるので、いくら純粋な静物化を目指したとしても、最後には技術的確かめによる「世界的驚き事実さ」が結局担保されることになる。ここで肉感をできるだけ捨象する微小の肉感ということを科学的ミクロと呼ぶことができるが、肉感それ自体から肉感そのものへと深く入ってゆくことを真のミクロと呼ぶことができる。科学的ミクロも、それが結局技術的な仕方で人間行為の深さを支えるものである(電磁的技術に典型的なように)限り、肉感的なものを深める立場として真のミクロに接続する資格を持つ。科学における真理そのものをどこまでも探求する立場の最前線にあるものは、ただその動機だけによって結局科学的対象を媒介にして真のミクロに直接していることになる。科学を本当に実在にとって説明的なものとして捉えるならば、科学とは思考が対象に含まれる無限の過程として定義される必要がある。ただしこのように対象に含まれる思考とは、どこまでも対象を思考によって限定するというあり方から理解されるのでなければならない。つまり対象が対象自身を限定する媒介者として思考がそこに携わるという考え方によって、科学というものの真意義を捉えることができる。

先の話に戻るが、観測装置が肌に近い立場を標榜すると言うのは、観測装置が要するに普通の肌よりも純粋な「厳密肌」として理解されているということである。そこに観測行為というものが人間感覚の本来の純粋なものだとする方法論的独断があるように思う。そしてこの独断を支えるのも一種の意志である。そしてその意志は真の意志において体系づけられてその内に存在するからこそ、単なる主観的な独断とは異なりそれ自身真理の表現となることができたのである。それは意志を否定するからでなく、意志の深い根底から派生した側面だから自己体系性すなわち客観性を持つことができているのである。物というのは人間存在の主観的あれこれのせめぎ合いにいつも中立的に立つ基本であり、普通の意味での意志のいかんにかかわらずいつも独立に法則的に動いているものと考えられるからこそ、人間の認識がそれに行き着きそれおいて純化されるべき場所として捉えられるのであるが、もともと物というものがそのようなものとして認識可能な背景そのものが、人間の意志の自覚によらねばならない以上、我々がここで掘り下げるべきは意志そのものだったのであるが、しかしそれは意志そのものを対象化することでなく、そのような意義を持つ物というものを物に即してどこまでも掘り下げてゆくことにおいて意志の不可知的基底をさらなる幽玄的不可知に至るまで掘り下げるということでなければならない。それにはいくつも道がある。一つは物そのものの対象性を、時空の形式の純粋さ(なぜならそれはどこまでも客観的に成り立っており諸物の成り立ちの基礎と考えられるから)に即して、その範囲内でミクロさというものを定義して、観測装置や数学的理論を機関として扱うことによって、この立場から忠実に明らかにしてゆくことであり、この「厳密肌」というものに支えられて我々は次に述べるタイプのミクロさを共同的に実現するための「技術的レンジ」を拡げることができ、また一面にこれは真理探求の一つの究極の道である。もう一つのタイプとは、芸術的に、物そのものに私の身体を媒介して語らせることである。ものの動きの一切が世界の自己はみ出しであることを適切に捉え、しかし捉えるだけでなく、共同的に人にわかる仕方でこれを表現する。そのさい「厳密肌」によって成り立つ技術は極めて深い表現レンジを彼らに提供することができる。実際にはこのような関係性には無限のグラデーションがあるが、要するに各立場が各々に与えられた忠実な対象に向かうことによって、表現的に相補うということによって、我々は真のミクロというものを得ることができるのである。真のミクロとは、それにおいて宇宙が表現されることができるという立場である。これら二つの立場を、特に日常性のもしくは政治性の世界に密着して結びつける立場を人文科学と言う。人文科学は、そのままでは運用困難な自然科学的成果を人間生活の体系のなかに適切に位置付けることによって、科学的成果という一種の「物」をそれに即してその人文的意義を掘り下げることによりかえって深くこれを客観化させるすなわち意志を人間世界に調和する形で表現するということを、責任を持って担う立場である。また人文科学のみならず、そこには法学の立場もあるのである。

心を動かすということが法則的事実と捉えられるならば、そこに心理学というものが存在する。ただし心理学では、普通にこれを法則という呼び方はしない。それがかえって心理的なものの法則性を深く自覚している立場であると言える。通りいっぺんの法則(として記述できる側面も心理学的対象のうちにはあるが)によってでなく、むしろその心理現象においてどのような深い構造がみられるか、シンボルが作用していると考えられるか、どのように諸現象が布置されているかということを、心理的主体と心理学者の対話のうちで慎重に検討して生かされることが求められる。この場合の主体と学者ということも、必ずしも実体的な二つの肉体ということを意味しないのである。むしろこれは対話というあり方が存在できるための媒介概念である。この心理学という立場によっては、法則すなわち意志というものの、深い不可知的開きの深淵さがいかなるものであるかを伺い知ることができる。

ともかく何らかの意味で動くということが、全てのものを媒介すると言うことができる。究極の意識的境地というものは、点的というよりも卑近な肌に直接してあるものであり、それを哲学的に抽象化することによって点概念のようなものとして成り立つのである。むしろこのような点とは、点Pの概念に象徴的なように、それ自身がどこまでも動きゆくものとしてはじめて体系の中心であることができるものとして捉えられる必要がある。単なる点はかえって面である。動きの中心となることにおいて、点はむしろ中心空洞的に、真に点の意義を持つ。渦というのはすでに形である。具体的な形との結節点・結節可能性を持たぬ点は真に点とは言われない、それは具体的には渦巻いたものでなければならない。これをもって媒介的なものが意識的なものから点的に考えられ、すなわちそのような意識とは結局はそのまま行為的なものであることになるのである。そしてそれは身体的ということでなければならない。媒介されるものが媒介するものを媒介するということがあるから、媒介するものとはもともと一つでありながら裂多、多なる被媒介的項はむしろ裏つながりとして一つのものであるのである。それは渦巻きにおいて同一裂多そのものでなければならない。

媒介論的哲学への三つめの眼差し

本稿は、媒介論的哲学への「第二の眼差し」への補論として書いたものである。

 


物理的な媒介者においてあるとは、そこにおいてあるものがその媒介者特有の連関の仕方でもって存在しているということである。人文的媒介者しかり、世界的媒介者しかりである。世界的媒介者において、我々は物全てが世界を包むものであることを見るのであるが、それはどこまでもメタ的に行こうとすればできる立場であり、しかし理念的限界としての絶対無が立てられることによってこれらは全て特定のものとしてあるわけであるから、そこにおいてある全ては絶対無のまどろみにおいてあるものとして再び捉えられる。自覚は再び無となる。ここはそもそも行為の入り口である。全体性をそこにおいてあるものの根底的同意にもとづいて自己の手に掴むということがここにあり、我々はここにおいて尖端的であらざるを得ない、なぜならそこにおいて自己として掴む何ものも我々には今失われているのだから。いくら微小になったとて行為性そのものが失われることは実際にはない、ただ理念的にそれが可能なまでである。もと物理的媒介者においてあるものが主観的でなく客観的な空間にあるものとして捉えられるのも、そもそもそれが実際にはこうした絶対無的立脚地を離れていなかったからである。それはむしろ我々の行為性の尖端においてその客観性の根拠を持つとすら言える。この尖端性から、包むという意義を除外するときに、いわゆる物理的媒介者においてあるものが見られる。それはむしろ認識の深まりによって部分における全体性への結びつきが深くなったことから可能なのであり、部分というのをここでは切り離すのである。メタ性はそこでは外的なものとして、あとから認識そして技術的操作のアプローチが可能なものとして捉えられる。私の手というものが物理的なものでありながら主観的な観測知覚機関としてその分だけ法則的認識のために信用ならないものとして捉えられるのはこのためではあるが、本来はこの手そして手と縦に結びつく媒介者の系列の全体性を科学的信用のモトにしなければならない。そういうわけで、いわゆる物理的媒介者においてあるものは、切り離されて、かつ切り離され得ないものとして、絶対無を反省しないもの、まどろみにおいてあるものとして理解される。行為的尖端をただそれだけ切り離すとき、包むということと尖端的にあるということとが静的な形で一つになる。*1物理的に言う場とはこのような静的なものである。もっとも現実の物理学というものは、この方向を極限に至るまで厳密に徹底化することで、絶対無が静的である限界そのものを人間に指し示し、技術的応用という強い動機に支えられて、結果としてそれは真理性の強いものとして受け入れられているのである。いわば限界ぎりぎり、崖の先っぷちに立たされた立場であるために、何が何でも次には行為というものが来なければならないのである。彼らは何が何でもパラシュートを設計しなければならない。もっとも崖そのものを掘り進めて最終的にただの丘に変えてしまうという道もある。これが哲学の道だとも一応言えよう。

行為的尖端といっても、実際にそんな尖端などはなく、形があるばかりではないかとも言い得る。しかし具体的行為に含まれたものを見てゆくと、常に物理的なミクロの働きへの当然の「踏まえ」が存在する。それは本当の意味での尖端概念そのものではないが、尖端的ということを考えるための一つの眼差しとなる。物理的ミクロというものがむしろ我々の行為の真の尖端性から派生して出てくるものである。超弦なる物理的ミクロ実在があるとして、その超弦に対して理論的というアプローチから立場的に優位に立ち続ける、いくらでも超弦そのものの内に、ただし真理性という看板を掲げながら(実際に人間はそれができるが)、どこまでも入って行くことができるのは、人間の実存というものがそれだけ真の意味でミクロ的であることを示している。これは比喩として片付けられてよいであろうか。その態度は、こういう前提によって成り立つ。すなわち物理的実在というものが、ある程度まで考えられたレベルでしかも認識から独立して存在するという前提からそれは成立できるものである。しかし考えられたものであるということは認識されたものであるから、そのレベルで認識から独立するということは、矛盾である。しかし認識の活動というもの自体は、「ここで」限界ということはなく、真というものは考えるということを媒介して、いつでも思ってみなかった深みへと至り続けることができる。実在というものは思われたものに従属してあるのでなく、思われるものがどこまでもそれへと向いゆくものとして在るのだという、誰にとっても承認できる前提というのは、それを唯物論とは逆の方向に捉えることができ、むしろそちらの方が実在の概念としてふさわしい。すなわちどこまでも、未知のものへと迫ってゆくことのできる行為性(すなわち考えるものの立場)を有するものが「それへと向かわれるべきもの」それ自身に直接しているということである。少なくとも考えることにとって、というよりも考えるという「行為」にとって、実在そのものというのは、それだけ肌に直接触れ得る形で開かれている。それをある時点での固形態から切り離してこれを実在だと言ってしまうから、思考というものは脳なる装置の神経運動ということになってしまい、実在はその外側に映るものの外側に考えられるもの(という捉え方が矛盾なのであるが)ということになってしまうのである。思考の外にあるものが思考できるなら、それはすでに思考の一部である。思考に真に外なるものとは、思考そのものに直接したもの、思考の内容そのものでなければならない。要するにむしろ内側と考えられるその方向にこそ真に外なるものがなければならない。認識とか考えるということは、常に己の限界を己の外に持つことであり、己の内というものがどこまでも外にあるということである。それはすなわち行為というものにおいてそれが本当の意味において存在しているからでなければならない。ただし行為というのは、全世界的映り(これが普通認識とされる)というものを尖端的に表現してゆくことであり、行為的というあり方は常にこの二つの観点を内から外へ外から内へと循環しながら行き渡る一つのダイナミズムのことでなければならない。行為が認識を包むのであり、行為は尖端的で対象的であるという一面から、旧来の「対象が認識を限定する」ということが考えられるのであるが、しかしそれは対象というものが認識者の深い内すなわち真の外側にあるからでなければならない。すなわち認識が行為に包まれるということにおいてはじめてそもそも対象が認識を限定するということが考えられることが可能であったのである。こういう場合目の前の形というのは、行為を媒介にした、絶対無の自己はみ出しとして捉えられるのであり、形と形との常なる行為局面可能性的なあり方自体が絶対無の広さというかその無性を示していると考えられる。形というものがあるから、形に対して小さい方向に立つあり方としてミクロというものが考えられる。ミクロは形の自己可能性である。ミクロというものの発想がもともと可能なものとして形が作られてあるから、ミクロなアプローチ者としての我々の自己というものはもともとミクロそのものの当事者であり、それは同時にどこまでも包んでゆくものの自己射影点(西田幾多郎による)ということになるのである。単なるミクロ即包むものだけであればそれはただの平面的絶対無であり、結局何ものも存在し得ない。それが具体的に形に媒介されて存在するからこそ、行為は肉感のあるものとなり(形から形へ)、行為的尖端とは一種の理念概念であることになるのである。同時に、我々を最も広く包むものとしての宇宙の形というものがそもそも「想像可能」であることになるのである。かえって一切は肉感的形に包まれてあると言うことができ、それが最も広いものと言い得る。見かけの宇宙の広がりは、目の前の石ころよりも、それが「広がり」と考えられる限り、狭い何かである。

最後に。媒介とは形ありきであり、意識ありきでない。意識ありきと考えられる媒介の立場では、実はすでに意識というものが形として前提されている。理念点というものは概念的に発想されるが、その概念があること自体が実体性から抜け出たことの証にはならず、むしろそれは別のレベルでの実体性に至ることである。我々はむしろいわゆる実体というものがどのような仕方で実体的であるかを見極めるべきであって、実体というものの役割を実在においてなるべく正確に明らかにしてゆくことが必要なのである。実体性を真に抜け出るには、実体性というものにどこまでも内迫してゆく必要があり、それは結局実体的であるとかないとか以前の立場に自らを置くことである。そこで、実体的に捉えられやすいところのいわゆる形というものから考えてみるのがよいと私は思う。形それ自身の形而上学性ということが我々にとっての真の問題であり、それは行為というものを常なる機関とする。形があってそこから行為があるということでもなく、行為があってそこから形ができる(と考えると形を認識の従に置くことになる)のでもなく、形と行為とは常に一つのダイナミズムとして捉えられねばならないのである。

*1:絶対無の自覚のためには、具体的には無限の反省の過程が必要となる。無限の反省には無限の表現の継続が必要であるが、それを初手でやめるのである。もっともやめた初手から新たな方向への枝が生え、そこが新たな立場の自覚的表現の場所なるのであるが。

媒介論的哲学への二つめの眼差し

我々が世界に向かうとき、その媒介者ということに次元の差がある。物理的、人文的、世界的と、ひとまず分けることができる。世界的媒介者において我々は行為の入り口に立つ。だがそれが単に認識であるに過ぎない場合、本当の意味において行為ということはなく、また同時に理念的極限としての絶対無を立てることで、この全体的媒介者への無限後退を避けることができる。しかし実際には行為そのものにおいて、低次の媒介者と世界的媒介者は一つに媒介されるということがあり、それら二つが同時に成立するので、行為の立場において我々ははじめて中にあるものの世界性すなわち現実の世界のあり方そのものに直接することができる。物が法則の忠実な表現と考えられるのも、もとこのような低次即世界の媒介者においてはじめて世界の実際の有り様が考えられるからである。もと媒介者の次元の差もこの行為的あり方の反省的分析から成り立つ表現的形の意義を持ったものである。反省的分析の一つ一つも実は低次即世界の媒介者においてあるのでなければならないが、その表現の形としてあたかも低次のもの専らのものがあるかのように名付けられ概念化されるまでである。

人文的というのは、物理的なあり方を自覚しているものを見るための媒介者である。そこにあるのは物の領域を包んでこれから自由になったものどうしが映し出される次元である。それは端的な対象化を拒むあり方を包んだ上での映りということでもあらねばならない。この方向にはどこまでもメタ的へということが含まれていなければならない。物理的というのは、世界的媒介者にそれ自身埋もれているものを見るための媒介者である。なぜなら無限後退を避けるための究極地である絶対無というのは、そこに至ればただちにメタ的であることをやめてただ在るものとならねばならないからである。このような絶対無が全ての無自覚的な物の主観的有り様として備わっていると考えねばならない。物理的媒介者においては、絶対無というものが外側から見られていると考えられる。これは対象的絶対無である。絶対無には行為の契機となる側面とあらゆる行為性を無にする側面がなければならない。行為的絶対無というものは実際、直接対象的絶対無であることにより行為が常に絶対的な一方性のものとならないことによって、かえって自己矛盾的に常に絶対的なものに直接すると言うことができる。絶対無において一面全てが包まれるならば(認識においてはここで止まるが)、行為の尖端であるところの私の物理的媒介者の側面は、絶対無の表現でなければならないので、対象と非対象の循環を共同理性的に行う人文面的媒介者を介してそれは無数の形として表現されることになる。対象と非対象の絶対的断絶の即一が絶対無であるが、それが形の世界に具体的に降りてくるところに人文的媒介者の役割があり、それは形と形とを形せしめるのである。そも物理的なものが質点でなく「物」の形で現れていること自体がすでに人文的媒介者の介在の背景を物語っているのであり、これにより、媒介者の次元の深さの各々はあくまでも程度の差として相対的に捉えられることが可能になっている。そこに物理学的、化学的、生物学的、社会学的、心理学的の諸次元が成立可能と考えられる。これらは実在の自覚的自己形成の過程の表現と考えられるので、当然原子というものの成り立ちに意識的なるものが介在していなければならないことが前提される。これは結論ではなく、この論が体系として成り立つための逆算的な必要な前提である。いかなる低次の自覚にも、そのずっと先の高次の統合の自覚ということがあらかじめ含まれている必要がある。この点を見抜いたのがいわゆるモナドロジーだと考えられる。人文的媒介者ということを対象化を拒んだものを含む映りとして捉えたが、本当にそこに徹底するなら純粋な非対象すなわち純粋な対象というものがそこになければならなくなる。実際には対象は対象の、非対象には非対象の領域というものがある程度独立的に妥当的に捉えられあるいは適切に設定される。確かにあらゆる形には一面この絶対の隔絶即一ということがなければならないが、形が形としてあるということは常にこれを具体的に乗り越えているということを意味する。そこに具体的媒介者としての人文的媒介者というものがある。物理的媒介者においての物は、純粋には質点のようなものでなければならない。対象的な絶対無というものは、実際全ての次元にわたってみられるものであるのでもなければならない。だが表現的焦点として、物理的媒介者にその役割が担わされているのである。

最初に示したように、ただ認識というものが、三つの媒介者の次元を有するのは、実際には認識そのものというよりも、上記の行為的あり方の反省的分析を経た表現の形として考えられるのであり、三つのものとは行為そのものが持っている即一的な三側面のことを理念的に指し示しており、それが実際の形に転化されて名付けられているものと考えられる。例えば純粋な物理というものは、確かに認識の立場において理念的に設定されるものであるが、我々の物理学というものはすでに質点の概念を乗り越えて久しい。そしてそこにもまた質点に代わる純粋概念というよりも、形と言うべきものが存在している。それは物理学という営みすなわち行為と一つになった存在性を有するのでなければならず、真の法則はただ一方的に物理学的に捉えられるのでなく、全てのこのような人文的背景をそのまま直接包んだ立場において存し、またこの立場から掴まれるのでなければならない。といっても、実体的にそのような立場があるというのでもなく、逆に全ての立場が実体的にこのような立場である資格を持つと言うことができるのである。物理法則の超越性は、思われているように物理的なものそれ自体に存するのではなく、それを自覚してゆく人文的背景の必然性を包む立場において存在しているのでなければならない。人文的あり方というのは、法則的にこれを見ようとするとき、実に頼りないように思われる。だが歴史的必然性としての発見の局面というものは、物質そのもののうちにあらかじめ極点的に含まれていたのでなければならない。そしてここで形而上学的に想定されている物質なるものは、それ自体を見るならば、それはいわゆる物質というものでもあるとともに歴史的なものともいい得るのである。ただそれが自己展開してゆくその道において、自己をあたかも物理面的でしかないような形で表すような仕組みを作って、その上でそれがそのような表れとして超然とした法則の上にあるように人間に発想させ、この法則性を自由に使用させるという理念を、恵みとして人間に与えているものと考えられる。実際には法則としての超然さというものは、人間(と我々が思っているもの)の意志の凍れる根源にその直接の根拠を持つ。この凍れる根源は全ての他者との不断の作用場であり、あまりに繊細微妙であるがために、予定調和という発想がなされる原因となっている。それにおいて存在というものは唯一の観点を分裂的に理念的に持つのであり、しかもそれは繊細微妙な分裂としてそれぞれの観点として成り立つ。その観点とは、単に自己と他者といった単眼的なものではなく、まず人文的と物理的とのレベルの差であり、そこに乗っかる形で自己と他者というものもあるのであるが、それを考えるのに人間の個体というものを想像しても正しくは理解できない、我々の観点というものはそこにおいて映る一切を他者としてみなせるのだから、行為的に没入するのが空間であるならば、時間が他者であり、私の意識に没入するならば、私の指が他者であり、概念に没入するならば、延長一般が他者である。いま延長一般ということについて述べたが、デカルトの延長という概念には、観念的空間をも延長的なものとして幾何学的に客観的に捉えることのできるような含蓄があるものと思う。すなわちそれによって純粋な概念というものは、絶対無の根源的挟み撃ちそのものにどこまでも様相が近接してゆき、そしてそのようなものこそが本来概念と呼ばれるにふさわしいものであると言うことができるのである。単なる認識においては絶対無の理念的場所が限界となってそこで止まってしまうが、行為の立場においては、そもそも絶対無の場所が尖端として内化し、その間にあるものとして人文的媒介者が形と形とを形せしめるということがあるので、概念というのは優れた意味での形、表現的焦点そのものの形であると言うことができる。ただ純粋な精神においては人文的媒介者そのものがどこまでも無色透明となりゆくと考えられるため、概念というものも純粋な絶対無の射影点のようなものとして発想されることが可能なのである。しかしこれも要するに表現的形のひとつの形態であるとして捉えられる。

媒介論的哲学への一つの眼差し

超越的なものを内側に入れることができるのは意識の立場ではなく行為の立場である。行為において表現において形を作ることで、私というものが全世界に直接認められる。物を作るということにも無数のあり方があるのではあるが、ともかくこの作る、そしてそれが認識の野の内側に形として入って来る、ということが、超越的なものが端的に部分的なものとして、物と物とを具体的に結びつける具体的媒介者として存在する仕方なのである。

ある物とある物とを結びつけることから新たな物が生まれるということが考えられる。ある物とある物とをとりあえず包むということと、行為的にその結合が表現されそれが地に接することとは、質的に異なる。前者はただ意識というものがあってそれが担当できる範囲のことがらであるが、意識がこの表現すなわち後者のあり方の全体を覆っているわけではない、むしろ表現された部分的形というものがこの意識的結びつけと行為的働きの全てを覆って、それを意識的に認識できる形へと自らを還元していると言うことができる。表現の形それ自体というものは行為においてはじめてこれに直接することができ、意識においては、行為のきっかけを与える間接的な接しのみが可能である。ある物をある物と結びつけるという直観そのものは確かに意識的に湧いてくるものと考えられる。しかしその時点での具体的な意識というものを観察するならば、そこにあるのはその物どもの意識的な意義どうしを結合するところの限定的な一般者にすぎない。もし仮にこれ、すなわち意識的な意義どうしの結合ということを、実は形而上学的地平が暗に前提された上で行われるとするならば、そのような思考というのは、すでに思考というのではなくして、行為という意義をもっていなければならず、すなわち一種の客体的空間にその結合作用の表現をすでにそれは持ち合わせ、全体的世界においてその存在が全体ごと認められているということがなければならない。思考をただ思考として考える限り、それは主体的に媒介するものとはならない。抽象的な絶対的一点ということを考えても、思考である限り、それは具体的に媒介するものではない。それが具体的な主体的な媒介者の意義を持つのは、このような一点がすでにそれ自身形としてあえていえば客観的に表現されているということがあるからでなければならない。真の媒介者は、表現的形そのものにおいて、行為的に捉えられるのでなければならない。

むろん超越的なものはそれだけでは何らの具体的意義をも持たない。そこに超越的なものと「言うに値するもの」が具体的にどのようにこの現象の世界にみずからを働かせているかということへの眼差しがおのずから出てこなければならない。そこで内にあって自らを、私から言わせれば「一点的」に媒介させ、それにおいて物と物との具体的統一を見る媒介論的立場というものが考えられるのであろう。実際物と物とがひとまず共通の括りにおいて捉えられるような場合、そこに媒介的な点的事態が存在していると言うことができる。一つの物というものがそもそも多様な観点からの統合として「一つの物」として捉えられること自体がすでに媒介的な事態である。質点というものは、このような点的媒介の古典力学バーションとして考えられるものであろう。私が先に考えた、物と物とが、「製作」的な仕方で一括りになるとき、多くの場合それらを括る名というものはあらかじめ与えられておらず、そのためそれは認識という一般性の確認よりも創造という個別性の実現という局面から捉えられる。ただしそこに名がないからと言って、これは非媒介的事態であるのではない、その名がないことにおいて点的に媒介する何らかの働きがそこにあるものと考えられる。しかしこの場合点とこれを言うのは、思考が先に行きすぎていると考えられる、それは発想点として理念的に考えられるのであり、それ自身が具体的な包むものであればあるほど、それは形に即してあるものでなければならない。だから我々は内的空間に設計図(というほど厳密でなくてもよいがとにかくそれに相当する像的なもの)を何らかの形で描いてみることによって製作するのである。具体的にこの事態を媒介しているのは、こうした形であって、このような形とさらに高次の形さらにその高次の形が最終的には純粋歴史的一点として包むものの意義を持つとひとまず言えるのであるが、ともかくそれに至るまでの点的意義というのは、それ自身は実際理念的に発想されるに過ぎないのである。理念的に発想されるものを理念的にのみ捉えず具体的働きのなかに直接発想するとき、それは実体的なあり方であると言えないだろうか。具体的働きのなかに実際具体的に働いていて真に点の意義を持つのは、意識的絶対点のようなものではなくして、形それ自身であり、その形それ自身を理念化するところに真の意味で点というものを見出すことができる。だがこう考えてわかるように、私は形というものを点と名付けるわけであるから、それは意識的な立場を主導させて迫れるものではない。無論意識というものの実体化を避けるという理念はどこまでも我々にとって共有される。ただそれについて具体的にどのように考えて行くかということの方向性に、私の考えと媒介点の考えとの間では差があると考えられる。私は先に、高次の形を辿っていってその先に歴史的絶対点があるというようなことを言ったが、実際には歴史的統一点というものも、理念的なものであって、その媒介的真相は、意識的なものというよりも、行為的に、形それ自身による媒介として捉えられねばならない。意識的なものと言っても、ここでその真義を理解するには、意識というものを形を具体的に包むものとして、肌から捉えなければならない。点として発想されるものは、むしろ行為的尖端として捉え直されねばならず、したがってそれは内容を超越の野において包んで(歴史的にさえ)媒介する単に論理的な点ではなく(したがって意識主義的なものでなく)、具体的に身体的に、身体そのものの働きの於いて在る場所として点即包む円というところから捉えられる必要があろう。点というものが理念的に、円なるものを表現していると考えることで、形が形自身によって媒介し媒介されるということの究極の形式的あり方が発想されることができる。そして意識というものは、意識からではなく、むしろこのような行為的あり方のうちに含まれた点即円の静的対象化として捉えられるのである。意識ということを、特定の境地であるかのような発想をするから、いやそのような境地などというものはどこまでもないと発想して、どこまでも意識否定的存在性、絶対媒介というようなものを考える必要があるのであろうが、意識は境地でなく、どのような境地にも必然的に即してあるところの理念点としてフラットに捉えるということがむしろ形の論理を具体的な論理として考えるためには必要なことであろう。

ただし形が形によって直接媒介されると言っても、それを論理形式として捉えるならば、そこにはやはり点的に媒介されるという意義を静的に(むしろ動的と言われるであろうが)抽象する必要がある。点というのは理念的捉えであるが、全てを形式に置き直すなら、それは例えばインターネットにおける自己のページの位置を示す座標のようなものとして、点というものを内容的に捉えることが可能である。意識というものは、全ての境地や形に必然的に伴ってあるところの理念的な何かであるということを逆手にとって、意識ということをどこまでも主体的なものむしろ主導的なものとみる形式的思考というもの、いわば逆転の発想というものが可能になる。我々の世界におけるあらゆる機械的なもの、蒸気機関からAIに至るまで、全てこのような形式というものを重んじることによって成り立った表現である。それは身体というものを、究極には必要としない、身体をあくまでも機械的労働の機関としてのみ使う立場でもある。そして点的な捉え方というのは、機能性の最醇なるものでもある。それがあるために、インターネットというものは具体的な内容をどこまでも包んでゆきながら、各個の座標を点的に与えてゆくものとして成り立っている。点というものはここでは数学によって規定されるのである。ここでは全てのものが一面情報的として、結局要請される媒介の形を全て数学的に規定されるような点に置き換えてもかまわないのである。点的媒介性というのは、私の立場から言えば、このような現実世界の「写像」としての機能性から捉え直される必要があるということになる。

 


私は本稿において、媒介者の持つ「否定的側面」そしてその故の積極性というものに注目しなかった。一応この点についてさしあたりの考えを述べておきたい。媒介者というのは、かなりざっくりわかりやすく言うと、ただのんべんだらりとある現実の事象を論理的に確定しようとするときに必要なものであり、それが同一であると言うためには是非とも裂多的である必要があるということであろう。媒介者自身が自己自身に同一であるためには、同様に、媒介というものを介してそれ自身が裂多である必要がある。とすると、そこに媒介者というものの無限の過程性というものがおのずから導かれてくるというわけである。*1同一性というものは、真に言うためには、形而上学的レベルの実在性に結び付かねばならない。その物が単にそのものに同一と言うのでは足りない。形而上学的レベルの実在性に結びつくと言っても、それは個多ということを抜かした全体的一であることはできないとなれば、方向はおのずから、一つのものが一つのものとしてあるにはそれが適切に分析されねばならぬという観点に至る。ただそれもむやみやたらの分析というものではなくして、あくまでも表現的焦点というものを持ったものでなければならない。フッサール現象学においては、意識の志向性の概念がその役割を担っていると考えられないだろうか。そして表現的焦点とは、現実には表現の形そのものにおいて含まれるというのが私の立場ではあるが、焦点の点性ということを取り出して主体的な価値を与えてみると、どうも機械的なもの、現代科学的なものと相性が良いようにも思われてくる。だが前に論じたように、真の物の「分かれ」というものは、むしろ行為的直観において捉えられるものと考えられる。どんなに考えない者も、現実に生身の存在としてある限り、必ず一定の行為的要請というものに面するのであり、そこにはその行為的要請に沿って全く寸分の狂いもなく適切に事物は「分かれて」存在する。その分かれ方のありようを調節できるのはただ意志の立場においてのみであり、意志というのは分かれの次元を行き来することができるのであるが、意志という特別なものがあるのではなく、現実の分かれの制約の自覚からおのずから要請される他次元への眼差しというものそこに必然的に動き出すものに仕方なく意志という名をつけたまでである。したがって自由意志とはただあるものでなく、変な言い方だが、それは意志的に獲得されなければならないのである。そしてそれは形そのものに於いて在ると言うことができる。意識の立場からは真に自己否定ということは出てこない。意識にとってすでに絶対的に否定的に立ってしまっているところのこの肌身の現実世界にそのまま媒介させてしまって、これによって、意識という境地ならそういう境地を否定の否定において掴むということが可能になってくるのである。そういう意味では、この現実の現象世界というものは、いわゆる意識よりも意識的にできていると言うことができる。だからそういう意味において、意識というものが、行為的な立脚地から、媒介的だと言われ得るのである。

*1:だがその裂多性というものは必ずしも過程という考えにのみ頼る必要はなく、むしろ形というものの現実のありようからシンプルに発想されるというのが私の立場ではある。