物理学的世界は、対象的にアプローチされるだけ、実際の世界そのものの全体というよりは、世界の男性形的側面を網羅的に把握しようとする立場ではないかと思われる。そして世界の女性面は、しばしば非対象的であるがゆえに、もともとそうした現れ方の傾向性を持ち合わせるがゆえに、そもそもが物理的ゴリ押し的に、網羅的に掴むことが困難である。しかし有益な化学成分を空気に撒き散らせば、おのずからそこに反応する一定の物質が、反応そのものから見えてくるわけであり、これは網羅的に一つ一つをタイマンから把握するというよりも、化学的な自己の引き出しからの組み合わせとその空気との調合との結果を参照しながら、複雑緻密にパターンを分析して、学問的に化学的な体系を作ってゆくのであれば、我々はある程度世界の女性形的側面に網羅的に迫れることになる。
物理学というものを男性形から考えたが、そもそもそれらをはじめとして化学や生物学等を含んだ自然科学の系列全体がまた世界の男性形の相と考えることができるのであり、これに対して人文科学というものが(特に心理学のようなものが)世界の女性形の相に迫るものとして考えられる。また学問一般というものが世界の男性形の相と考えることができ、それに対して芸術文化というものが世界の女性形の相と考えることができる。またなんらかの人間的公共的営み一般というものと、個人的感情というものは、それぞれ、男性形、女性形として捉えることができる。この場合個人的感情は、学問的に還元されてしまうようなそれではなく、全ての営みに沿って営みとは独立的に己の座を持つものとしての感情であり、それは常に無言なるものである。感情的言明によっても、それ自体を捉えたというのではないような、常にここにあり、ここに隔たってあるそれである。女性形の対象的極限というものの相を一応ここに見てとることができる。つまり全てのあり方は実は自己矛盾的にもともと男性形即女性形としてあり、この二つが実体として分かれるのは、表現を介した相対的概念的な捉え方にすぎないのであるが、ともかく概念として理念的に女系形というもの立てようとするとき、その対象面性を否定する別の面というものが概念的には必要である。これを従来の用語では述語面と言うので、さしあたって我々もこの語に従うことにしよう。さて、どこまで行ってもある種の現れであることのできてしまうものは、何らかの対象面性を持つとともに、そのものの於いて有る次元固有の述語面性を持つと言うことができる。このような非対象面的あり方を一種の対象面であるかのように概念的に分離できるのは、あらゆる現れがそもそも自己矛盾的に対象面即非対象面的だからであり、どこまで述語面的方向を遡ってもある種の対象面的把握がその次元に至れば存在し、このあり方が付きまとうからである。かといって単に対象面化するのであれば、もともと述語面としての意義も存在し得ないわけであって、したがって概念としてあくまでも次元それぞれに実在的な基底性を直接認め、そこにどこまでも概念的に独立したものとしての述語面性を認めなければならない。我々が次元を行き来することができるのは、行為的であり、時間的であるからであり、そのときどきに根源的なものに直接するとともに、自らのうちに無限の背景と含蓄を内的に有するからである。そういうことがあるから、各次元は各次元としての独立性を持ち、それぞれの世界は独立自存の文字通り一つの世界を自己自身によってなすものとして捉えられるのである。さて個人の感情として純粋化したものに至って、女性形の対象的極限の相を見てとることができると言ったが、たしかにあらゆる次元におけるそれぞれの述語面的ありようを考えてみると、それぞれに無言の言葉とでも言うべきもの、いわばその次元それぞれの固有の感情とでも言うべきものに、それらが糊付けされて存在していると言うことができる。それを対象化するとき、それは対象になってしまうので、純粋な述語面的「その数不問性」からは離れてしまって、ここにそれができるだけ純粋な仕方で存在できてしまう、ある還元先であるところの、対象次元というものが探され、そこにこれが当てはめられてしまうことになるのである。女性形というものをこのように対象化してみるならば、我々の限界のなかでは、個人の感情というものがそれにあたるのであり、それは先も言ったように、本当のところは、言明のうちには存在できない無言の言なのであるが、それが対象化されたことによって、それは述語面としての根源性を失うことになる。だからそこにおいて語られる根源性というのは、おのずから対象的なものとしての根源性ということにシフトしてしまって、個人の感情というものがあたかも心理学に還元されて理解できるようなものあるいは脳科学に還元可能であるかのようにも考えられてしまうのであるが、そもそもこの捉え方には論理を顛倒させているところがあるのであって、女性形的なるものの真の根源性はその述語面性において捉えられねばならないのであって、そこにはまず「その数不問性」をはじめとした、さしあたって我々がこれまで掴むことのできたところの実践的原則が当てはまっている必要がある。矛盾的自己同一ということも、現時点の我々にはこのような実践的原則の一つとして援用する方が、さしあたっての理解にとってかえって極めて有効なのではないかと考えられる。
では述語面性にはあらゆる対象性が無意味なのかというとそうではなく、それは対象性には還元できないというだけであって、実践的には、対象というものをどこまでも包んでゆくものとして、対象的あり方からは、内つながりのものとして捉えることができる。我々はそこに至る経路を見出せばいいのであって、その上でそこから先は音のない光のない場所である覚悟とその留意を忘れさえしなければいいのである。それで、最初に述べたところからわかるように、物理学的あり方にとっては化学的アプローチは述語面的に働くとひとまず捉えることができる。物理学的原理からすると、そもそも化学的結合の様式というものは、それ自体の単位としては全く意味を持たないものと純粋には考えられ、したがってもし物理学的言語を援用して化学的言語を語るということをしようというなら、それは要素と要素との結合関係のパターンをどこまでもパターンとパターンとのパターンなどとして分類して語ってゆくしかない。しかし化学的単位それ自身においてはそもそも生体なる単位が形成されるための基礎条件をみずからのうちに眼差しとして含んでおらねばならず、そして生体というものそれ自体というものを下の次元からはうまく語れないので、今度は化学的知識を援用して、パターンとパターンとの複雑な集合体として、最後は理性の妥当判断に頼って、生体ないし生命というものの定義を行う必要がある。その生体というものはさらにその上位の社会性というものを眼差しとしてすでに含んでおらねばならず、それはまた人間の歴史性というものをまとっていなければならず、またこのようにして個人の感情というものが、物理学的純粋ミクロにおいてはじめから眼差されていなければならないのである。なぜなら要素の集合体を、妥当な単位として判断するその行為の根拠がいかなる対象的要素にも見出され得ず、かえって要素の自己矛盾的な非対象性のうちに、すなわち、純粋ミクロがあらかじめ歴史的あり方を包んでいるという状態子的な概念からそれが見出されねばならないからである。ただしそこでミクロが歴史を包むというその仕方は、対象的なそれではなく、どこまでも述語面的にということであり、その具体的な形成過程をあらかじめ行為的に含意するということなのであり、だから我々の世界には精神現象学的な哲学概念が、具体的表現の形としてここに担保される必要があった。
物理学には実在そのものを目的とする純粋ミクロの物理学と、実践的原則を取り出すことを目的とする古典物理学があると考えられる。もと古典物理学から物理学というものは発展したが、そもそも物理学がはじめから純粋な仕方ではなく、古典的な仕方で成り立ったというその順番の意味を捉えることが重要であると考えられる。マクロな仕方においてむしろミクロを説明できるための実践的原理が取り出せるということは、我々が対象的にどこまでも実在概念を純化させていこうとしても、このような実践的立脚地を根源的に失わないということであり、それは我々が感情そのものと陸続きである空間と常に一つである場所においてのみ物理学においてさえの根本的実践原理を取り出すことができるということであると言うことができる。実際この陸続きのなかでも、原始的な、対象面と非対象面の分化というものはある。だがこのような分かれは、後の近代物理学における純粋な分かれにおいて見るならば、そこにはあまりに「思い」が乗りすぎていると言うことができる。なぜ我々は認識の恣意というものが、しかし近代物理学のような厳密な営みの実践的駆動力となるに至るまでの物理学的根源力を取り出す基盤となったと考えることができるか。認識の恣意というのは、いわゆる恣意的な認識のことではない。そもそも物理学的に成り立っているはずの生体というものが認識機構を持ち、あまつさえミクロの領域の適切な認識にその機構の機能がダブり得るということ、そのことが極めて恣意的かつ不可思議な事態であると考えられるということである。その驚きの有り様の統括者として適者生存のような原理を考えるにしても、すでに物理学から生物学へのミクロ単位そのものの乗り換えいわば跳躍があり、さらには適者生存そのものの根拠いかんと問えば結局は感情的な基底性というものを発想しなければ説明がつかないありようとなっている。つまり結局は感情というものがあらかじめそれ自身のうちに、極めて厳密な物理理論を包んでいなければならぬとともに、物理学的実在と考えられるものが、恣意的とも極端には考えられる感情的原理を包んでいなければならないのである。物理学というものが生物学や社会科学と結びつくことのできるその発端は、そもそもこのような古典物理学的基盤からであり、それをどこまでも離れ得ないからこそ、我々は生物学や社会科学を意味ある独立した学問として捉えることができる。我々の行為的直観的なる場所がいつでも、これらの諸対象に向かう態度に共通の基盤を与えるのであり、それらは根源的にはいつでも感情的なものに糊付けされている。その感情的なものを学問一般の基底という意味合いから我々は理性と呼んでいるのである。だから理性とはいつでも感情的基底を持つと言うことができる。感情的であればこそ、それは単に対象的に理性と呼んでしまってこれで終わりとできないものとなっている。それは例えば芸術においては表現的直観という形で存在していることが多い。物理化学的にはそれはエネルギーと呼ばれる。私は芸術的エネルギーと科学的なエネルギーを安易に混同するのではないが、そもそもそれらの間の対象的な厳密な区別性そののが述語面における理性エネルギーに基づいてのみ存在可能なのである。もっとも述語面的同一とは、対象的同一から見た補集合すなち矛盾的自己同一なのであり、それは対象的同一の形を借りて記述すれば、一であるとともに同時に多であるという性質を常に持つ。それを観点の違いによる一性と多性との棲み分けというような対象的視座におとして見ると本質的なポイントがわからなくなってしまうが、実践的にはとりあえず矛盾ゴリゴリを押し通して合理的な解決そのものをエイヤと拒んでみると、そこにおのずから解答が立ち現れてくるのである。一即多という言い方もあるが、一という方面に突き詰めた結果その奥行きすなわち原始含蓄というべきものを取りこぼしてしまうので、それはおのずから多ですでにあることになる、多にすぎないのであれば、それは一つの場所ですらないのでかえって対象的なものの地位にみずからを落とすという具合であり、結局はそれは多である時点ですでに一であるということになる。さりとてその間の無限反復の運動それ自体ということを考えたとしても、その運動それ自体の同一性というものがすでに、述語面的には一即多の様式となっている。運動の純粋対象面は絶対的精神なるものであるのだが、その述語面にはいつでもせわしなくしかしどんと構えた無限の水が存在している。この神液とでも言うべきものが、要するにあらゆるものの述語面としての感情として、「その数不問」的なものなのである。
さてここでは、世界の男性形と女性形の相という着眼点から、最終的に述語面というあり方そしてその「論理」としての旧来の論理から見た逆回性ということに注目して、感情というものが述語面的には理性として諸学問などを統合する場所であるということを論じた。あらゆる区別はそもそも区別と無区別の以前の場所から行われる。だからそれを補集合的に語れば、あらゆる区別は無区別から生まれるという矛盾的言明になるのである。無区別なるものの創造的自己展開運動そしてその運動無化という根源的立脚地の同時存在によって、我々の於いて有る世界というものは成り立つのである。そこから派生して物理学的実相そのものが個人の感情(ただしいわゆる個人の心理学的感情ではないが)を包む仕方でもともと自己自身を成り立たせているのだと言うことができる。またこれらに残した論点は、様々な派生的問題につながり得る含蓄を有しており、私のここでの記述は、さらなる新たな気づきへと哲学的に開かれていると思う。それを今後また汲み取り、再び記述として私自身も展開してみたいと思う。そのためのメモとしての意義もこの稿は持つ。