2024-08-01から1ヶ月間の記事一覧
視界の隅にはどんどん世界が展開してゆく これは、夢の中で気づいたことに関しての句?です。目の隅にちょちょっと見えているものが、実際の事実と関係なく、私の妄想に色づけられてどんどん一人歩きして展開してゆくことに興味を持ちました。という体験を夢…
理念的にのみ実体的である。我思う、故に我あり。疑うことにのみ普遍性の入り口が見出される。理念的にのみ普遍性は実体であることができる。表現というのは、その中間にある。表現することによって疑い得ないものそのものを掴むのではなく、疑い得ないもの…
同一があるなら、同多もある。世界が同一というなら、その世界は同時に同多なのである。同というよりも異と言った方が適当かもしれない。一とは、一なる方向に収斂し、そのゆえに一つの単語によって言い表すのがふさわしいが、同多などと言うとき、これは一…
いかなる人にも感情、内的広がりの自由は与えられており、どんなに不幸な境遇にいる人にでも、内感の自由は何をどうしても剥奪できない。はずなのであった。どうも霊的全体ということを見るならば、実際はそうでもないみたいなのだ。しかしよく考えると、内…
一小難しい話ではないようにしたい。明晰が尊い。 何度考えても、結局は何も考えない自然状態に戻ってくるのは一体何なのだろう。そしてときどき思い出したようにまた考え出す。そのとき、その瞬間には勢いが加わっているから、自分が何を言わんとしているか…
尋常の文章の読めなくなった私は、二次的にタブララサを得ることになった。もっとも今の私にここから全てを得てゆくスポンジのような性能はない。擦り切れた雑巾のような吸収力しか持たない。新鮮なタブララサではない。何もわからないのに、何かわかろうと…
準備体操。単純な図式。純粋客観→認識→行為→純粋客観行為は純粋主観においてあり、ここにおいて純粋客観と直接する。この図式が、ここでの論述の基本である。後に論じるが、行為性の概念が「一つの世界を形成すること」として拡張されて理解されることになる…
混濁歴史論。巷にあふれる、ずれた歴史認識、主にスピリチュアルにおいて語られるそれぞれを、それぞれに真実と認めるならば、その解釈がどれも可能なものとして歴史が考えられ、とすると同じ用語、アトランティス、ムーなどといったものが指し示すのは、そ…
全てが全のためにある。だから行為というものも全のためにある。全のためにないものも考えられるが、それは全でないものが自己循環し、全の代わりを、方便的になしているところから来る、それは、にせもの、似せもの、と考えられる。全ては全のためにあると…
https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/08/10/155808この記事の一段落目の後半において、思考が不明瞭なところがあったので、ここではそれについて再考する。まずは引用文を貼り、そこからこれについて議論してゆく。 引用ここから。 三次元が抽象…
限定三次元が四次元への入り口。それは常なる知覚の地平である。単純に意識の背後が四次元的なものと考えられる。無論四次元と局限しないでもよく、それは本来無限次元的なものである。しかし普通に三次元的と考えられる空間は何かと言うと、むしろそれは空…
中の人との関係について。与えられた悪意を泣き寝入りして受け止める。なぜならそれについて書き出すことまでもが彼らの悪意を喜ばせるものとなるからである。つまり私にとっては、そのような悪意ははじめから存在しないものとして、これを扱わねばならない…
人間の自然状態を五次元的なものとして理解する。そこから自覚を無にしてゆくという方向を考えると対象的な自然が出てくるわけだが、それのおいてある空間がなぜ「三」次元なのか、わからない。四次元時空という概念は、四次元空間という概念と異なり、より…
物の認識において、自覚を無にするとき、五次元はゼロとなるため、そこに四次元時空という一定不変の枠組みを考えて差し支えない。つまり五次元を忘れ続けることがこの時空間をそれとして維持する秘訣である。そしてこれがあるため、認識=物理学的真理とな…
https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/07/24/102044この記事に関する補足としてのメモ。 時は環境である。全体という現在を過去へと送り、全体なるものがいつの間にか部分となってしまうのである。常に全体的なものは、環境においてすでに部分で…
状態子によってクオリアを粒子化して考える。骨という状態子もそれへの直観としてクオリアごと捉え、これを粒子として理解する。クオリアとはもと創造的原始的に粒子的なものなので、こういう考えが有効になる。クオリアは縁のない点であり他のクオリア単位…