山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

内側は何から始まるか。どこに浮いているのか。私にはそれが必要である。内側が守られることは何によってか。書くことへの潜在顰蹙によってではない。潜在顰蹙はそのあまりの不合理さゆえに守られているのであろうか。あるものがあるのではなく、勝たねばなくなるのはどうもおかしい。あるものはただあるはずだろう。ある程度外回しの回路にもプールが必要であり、そうでなければ肉体次元にそれが現れてこないのだろうが、その辺りの世話は、この辺りの接続に故障が起これば、もうあまりやってくれないものと見える。抽象的内側、たぶんこの意識からは見れないそこのあることを、ただ概念によって信じるだけになるというのは、やはりおかしいこと。もっと意識と溶け合った統一があるはずであり、これだけのことに信仰に頼らねばならない状況を招いた、さて誰の罪か。