山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

物の物そのものにおいてはそれはどこまでも原子的なものということになる。それを否定し形となるものが物の自己否定と捉えられるのであるが、その物の形自体がまた自己否定的なものであり、それは概念の方向へと洗練されてゆくことにおいてそうなのである。物の根本的多は、次の、形となる段階においてもつきまとってくる。概念とは、全てを統べることにおいて表現されるものであり、それが表現活動として産み落とされることにおいて自己の姿を見るのである。このように自己を見るということがなく概念というものが存在することはあり得ない。そのような概念はただ静的なものに過ぎないためである。ただ静的な概念は、概念としての実体性を持たず、それ故に筆記された紙上の文字列は実体から離れてあることができるのではないだろうか。しかしそれらも実際書かれ、読まれ、活かされ、要するに具体的な表現の文脈におかれるものであるからこそ、動的な脈動的な意味において実体的と言うことができるのである。静的なものとしての文章は、文字列という多であるのだが、それがそうであるままでは実体性を持たないことは確かである。実体性はこれが社会的意義を持って扱われることの内に、動的にあるのである。そうでなければ、ただ一つの紙だという点にのみそれの実体性は存在することになってしまう。

文字列は、根源的多の最も「把握しやすい」型を示しているのではないか(すなわち端的に形式的に)。一つの統合体には複数の統合されるものを含んでいなければならないのであるが、一つの文章とはこの統合の全体性を端的に示したものと言える。文章の目的が概念であることもまたそれの高度な実体性を物語っている。

形を持つものからイデア性を奪ってゆくのに二つ方向がある。一つは純粋な概念へ至る道である。これは要するに、矛盾するようであるが、純粋なイデアへと至る道なのである。もう一つは人間の認識を拒否してゆく方向であり、これは人間によっては捉えられないという意味で無限の闇と言えるものであるが、考えようによっては、これもまた実体であるとすら言えるのである。無限の闇と言っても、単なる同一素材の闇一面というものを考えても物体の形成などは説明できない。これは概念そのものの空間と言えるのではないか。あらゆる可能性をまとったものがここにあるというこではないか。しかも不定形に。そうすると、この二つの真反対の方向は実際に一つのものであることがわかる。ただし、これは形而上学的な概念なので、これを絶対分離的自己同一と呼んでおくことにする(当然西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という概念を受けているが、私にはこの概念について確かな知見を持っているとは言い難いと思われるため、別の言い方をし、新たな概念とした)。全ての全てである「この中間」(すなわち実は純粋経験)とは、実際に存在としてあることができるために、このような絶対分離の絶対同一というものを前提していると言える。「この中間」の外に存在を求めることができないのは、「この中間」がそのまま絶対分離の絶対同一だからである。この場合絶対同一とは単なる実体的な概念であることができず、常に絶対分離的なものであらねばならないのである。絶対分離には実体性を殺す力がある。ここに無限の闇とも言うべきものがあると言える。不定形という意味で、同から同へと行きこれが無限に続く空間を絶対分離の空間と言う。これは一つの理念的形式である。

ただ形成的中間とはいったいどのようなものなのだろうか。形成において姿を現すことができるとはどういうことなのであるか。それは抽象的には、絶対分離の自己表現と言うことができる。これについてはまた後に考えたい。