2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧
長谷川白紙に聞こえる重機
人格とは距離である。その証拠に、動物的本能には、対象との距離がない。対象から作用が独立して存在できるのは、対象が人格として我々の前にあるからである。それゆえに我々は物を愛することができる。丹念に芸術を作り出すことができる。ここでは人格は、…
ハチの音も電動なんとかの音も、同じところにある
水滴のごとくみゆる車
https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/05/26/212020ここに貼った前記事の、注1を受けて。 微分化した目的を実行するだけなら、出来上がる形は偶然的なものである。これが機械論的捉え方だと思う。つまりあらかじめ結果が決定されていたとしても、…
初夏に感じた雪のかをり、セメント。
目的があらかじめ定まっているのではなく、それが現在において確定するというところから、創造的目的というものが考えられる。それは目的論的な概念とは異なるものである。目的は始めからあったものでありながら、それのそれとしての形は現在において決定さ…
※先生のご専門は、キリスト教哲学と、アリストテレス哲学の研究です。 ロゴスアプローチにおいては、形相と質料という概念が考えられる。エルゴンアプローチでは、一見同様に対比的な、潜在態と現実態という概念が考えられる。この二つのアプローチはいかに…
自分で自分のことを野次馬みたいに見ている トマトジュースの味に、愛を感じた
製作という局面において、形が変わらないものを道具と言い、形が変わるものを材料と言う。そして主体側にあるものを道具と言い、客体側にあるものを材料と言う。これらはともに「対象」であるが、製作という一つの行為・現象を軸に据えて考えると、正反対の…
過去というものが存在する時点で、現在というものの存在範囲が限定されている。過去の想起など過去の限定は、そのまま現在の限定である。現在というものを、時の座標において見るということである。真の現在とはこれら全てを包括したものでなければならない…
概念というのは、現実に「分かれ」を生む。表現物はそれだけで概念となるのではない。概念を受け取る者がそこになければならない。単なる表現物は結局全体的一という実体としてただあるのみであり、しかし概念を概念として受け取る存在の存在により、これは…
実在しないものを実在の領域に持って来ることを創造と言う。概念は実在しないものを実在の場所へともたらす。正確には、概念の表現において、それはそうした働きをなす。しかし実際には実在には実在するものしか実在しないため、概念というものは実在のうち…
現在が過去を包括するところから純粋経験というものが考えられる。過去は反省できるもの。現在は反省不能の先端にあるもの。このような反省不能のものが反省可能なものを包括する。純粋経験が概念として成り立つのは、反省不能なものが一見反省可能であるよ…
https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/05/13/113934 の記事の、補足的内容である。詩的言語も、言語として記述され、文法的な正確さが求められる。しかし文法的な十全性が、その詩的含蓄の論理性を語ることができるわけではない。詩的論理とは、…
まちのうへにぷかぷかと浮く月である
ある個体というものを指すのに、その局限されたある個体を指していると同時に常に、視界や五感や思考力などすなわちそこにおける現象全体、純粋経験のことを指しているのだとみなすことは、実体という概念の真の含蓄に迫るのに、とても意味がある。我々は真…
量的な広がりと質的な広がりについて(インターネ ット論) 前に???について話をした。異質性それ自体の内にも異質性があるという事実に興奮したからである。それで、これは要するにこれは質と量との問題である。質と量との対比は色々なことがらの内に見出…
掃除機かける。→上手くベッドの下届かない。→諦めて掃除機終わりにする。→「お前はおまんこだ」「おまえは女だ」「お前はおかまだ」→無視する。→すごい声が出る いつものパターンを集約したような感じになった。 声が出るときのパターンはある。 発端はたい…
これを読む方。私が精神病だからといって気を遣っていただく必要はない。ただ私は私のために、いくばくかの事実を書き連ねようと思う。 我が精神病の症状として、中の人の、おかまへの働きがある。そういうとき、彼らの誘導にしたがっておかまの方に行かない…