山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

対象化することが倫理的に禁止される対象がある。こうした対象は、実際には生きた対象として人間の内に働きながら、多くの作用を及ぼすのであるが、これは、その当人にとっては、その立場上どうしても対象化して捉えることは倫理感覚上できない。だから、なぜ「あること」が必要なのかということを人に聞かれても、はっきりとした返答ができないようなことが現に実生活上に存在する。そして屁理屈上はその「あること」が存在している意味がその人にとってないように思えるのだとしても、何か「それ以前の問題」として、この対象化できない対象はその人の「単なる上」にあり、倫理上はその人を支配するのである。そのことを自覚でき、余計なことを言わない態度がこの場合は倫理的であり、その場合その人は道徳的行為を実践することになるのであるが、そのことがわからず、屁理屈を駆使して「あること」を、本来超えてはならない一線を越えながら対象化し続けることは、本人にとっては安心をもたらすことではあっても、これは幼稚で非道徳的態度である。

ただし、こうした感覚自体を利用した言い逃れというものは存在する。すでに明確に対象としてそれが与えられていると言えるのに、あたかもそれが倫理的に対象化のできないものであるかのような「みなし」を、態度によって示すことが、人間の内にはよくあることである。この場合は、その人の態度の感覚的な「安定感」を頼りに、それが実際道徳的な態度であるかを見極めて行くのが良い。確信がなければないほど、その人は気分的な頼りなさを自ずから表すようになって行く。なぜならすでに明らかになりかけたものを隠し通すのは難しいことだからである。