山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

2024-12-01から1ヶ月間の記事一覧

俳句もどき

冬の朝 月は照る 不思議な光景

善の研究 その二

知的に定義される限りの善は、ひとまずの善であって、善の本体を捉えることはできない。だからひとまずの善とは、その根底を結局は好悪におくことになる。それを一応倫理的感情と呼ぶことができるが、真に倫理的な立場をこの言葉によって示すことができるわ…

俳句もどき

スポンジでフライパンの蓋洗うと縄文のようになる

わからないものの位置

あるものについて、わからないがその位置が知れており、それに対してどう扱えばよいか、その全体性の輪郭を把握することを技術的と言う。そしてそのわからないものの内実がわかればわかるほど、この技術的輪郭はひだを細かくする(結果として応用の表面積が広…

司馬遼太郎の「公(ステイト)」についての見解に寄せて

真のステイトにおいては、その時々の「公の目的」すなわちその時々に真に全体を活かしめるものにとってのそれに応じて、機関である組織の内実が定まってくるのであり、人選も実体的なものではなく、流動的に、ただ機関の必要に応じて定まってくるのである。…

ただの哲学メモ

今は無限に今に到達できない。現在が全ての時を包むというのはそういう理解を抜かして考えることはできない。 関連ありそうな記事: 「『起源』があるという直観のそもそもの不思議さについて」 https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/11/29/15195…

善の研究。ただ答えだけを述べよう

上善は水の如し老子のどこかからより。 形式が特定の内容に結びついて実体化するとき悪となる。実体を無内容とするとき、形式は純粋機関となる。実体とは内容を伴わねばならぬのだが、それが無内容であるとき、形式は真に実体化でき、つまり形式が実体性を抜…

理性一般のワタクシ的解釈

抽象的な知的自己に対しては単に与えられたものという如きものが考えられるであろう。“しかし個物的自己としての我々に与えられるものは、生死の課題として与えられるものでなければならない。世界とは我々に向って生死を問うものでなければならない。個物的…

現実とは非存在であり、存在からの存在の奪取である

現実とは存在が存在でない側に回り込むことであり、本来存在とはアカシックレコードの静的平面で全て事足りたのである。それをわざわざ個の視点に立って経験しようとする意志が発生したために、全ての存在は互いに呼応し合って体験の場を拵えたのである。そ…

俳句もどき

西に白い稜線立ちたり 今朝の日高山脈の様子から。