2024-12-01から1ヶ月間の記事一覧
形而下学としての宇宙論が是非とも必要であり、それを前提としてその上で形而上学をやる必要がある。今得られる知識と昔得られたその限界には差が自ずからある。昔単に形而上的として押しやられたものは今は現実に手に取ることのできるようなものとなりつつ…
様々に考え、書いていると、自我の気が強く通じて、つまり幽界的になり、首が詰まってくる。これはよろしくない兆候であり、正神交流的でない精神統一のあり方である。さりとて進まないわけにもいかないのだから困ったものである。だからあまりよくないとは…
行為的直観をどうにか概念的に記述するのであれば、媒介者の自己限定という矛盾的論理、非論理的論理に撞着せざるを得ない。そこにあるのは、論理ありきの現実でなく、現実ありきの現実である。現実ありきの現実であって、はじめて論理ありきの論理が成立で…
このさびしさがなければシャワー入れる 不潔なる自分に寄せて。
認識の仕方に、歴史的な蓄積による独特の直観発達というものがあると考えられる。どういうわけで、そうした直観力を働かせることができるに至ったのか、その仕組みまではわからないが、これは理性にアプリオリに与えられた形式に相当すると言ってよいであろ…
限定された形式を、形式の根底とするならば、普通に内的発展を遂げてゆくと考えられるその諸段階の一々が、まさに内的発展性のゆえに、つまり自己の面する世界そのものに全身ごとそれは対するが故に、そしてこの全体的世界のなかにその根底的形式も含まれる…
形式とは物だと考えれば考えやすい。普通には物と形式が分かれるが、形式というのを精神次元における物と捉えるならば、普通の意味の物も、物という一つの形式となる。物はそれ自身に無形式的と考えられることによって行為的直観というものが理解され、精神…
概念を提示してみせて、それがいかに公平で包摂的であっても、我田引水の無理矢理な曲解をする者があるから、結局は彼らの言い分を汲むことは少しもできなくなる。そうしたら分をわきまえず、勘違いするからである。 その時々なりの「無」の表現が、善の形式…
形式性に囚われない哲学というものがあるだろうか。私はいままで現代思想に触れなさすぎたのかもしれない。 哲学に触れる権利を、そして義務を、哲学が規定する資格はあるのか。この理解に哲学の全てがかかっているような気がする。その虎穴から創造性を捻り…
南京錠自体がかじかんで開かない
冬の朝 月は照る 不思議な光景
知的に定義される限りの善は、ひとまずの善であって、善の本体を捉えることはできない。だからひとまずの善とは、その根底を結局は好悪におくことになる。それを一応倫理的感情と呼ぶことができるが、真に倫理的な立場をこの言葉によって示すことができるわ…
スポンジでフライパンの蓋洗うと縄文のようになる
あるものについて、わからないがその位置が知れており、それに対してどう扱えばよいか、その全体性の輪郭を把握することを技術的と言う。そしてそのわからないものの内実がわかればわかるほど、この技術的輪郭はひだを細かくする(結果として応用の表面積が広…
真のステイトにおいては、その時々の「公の目的」すなわちその時々に真に全体を活かしめるものにとってのそれに応じて、機関である組織の内実が定まってくるのであり、人選も実体的なものではなく、流動的に、ただ機関の必要に応じて定まってくるのである。…
今は無限に今に到達できない。現在が全ての時を包むというのはそういう理解を抜かして考えることはできない。 関連ありそうな記事: 「『起源』があるという直観のそもそもの不思議さについて」 https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/11/29/15195…
上善は水の如し老子のどこかからより。 形式が特定の内容に結びついて実体化するとき悪となる。実体を無内容とするとき、形式は純粋機関となる。実体とは内容を伴わねばならぬのだが、それが無内容であるとき、形式は真に実体化でき、つまり形式が実体性を抜…
抽象的な知的自己に対しては単に与えられたものという如きものが考えられるであろう。“しかし個物的自己としての我々に与えられるものは、生死の課題として与えられるものでなければならない。世界とは我々に向って生死を問うものでなければならない。個物的…
現実とは存在が存在でない側に回り込むことであり、本来存在とはアカシックレコードの静的平面で全て事足りたのである。それをわざわざ個の視点に立って経験しようとする意志が発生したために、全ての存在は互いに呼応し合って体験の場を拵えたのである。そ…
西に白い稜線立ちたり 今朝の日高山脈の様子から。