中の人との関係について。
与えられた悪意を泣き寝入りして受け止める。なぜならそれについて書き出すことまでもが彼らの悪意を喜ばせるものとなるからである。つまり私にとっては、そのような悪意ははじめから存在しないものとして、これを扱わねばならない。私が哲学するとき、彼らは私を様々な仕方で妨げる。ではこのような仕方でそのことについて書くことは私にとって何らか慰みになるであろうか。事実は全くそうではない。なぜなら書き出すことによってそれが注目され、悪意の存在が存在として立てられることになってしまうからである。だから私にとっての唯一の救いは、それがはじめから存在しないものとして振る舞い、いかなる局面にも愛をもって対応することである。例えば、私はこうして文章を書き出すときに、その直前にこのような文を書こうと思っていたその思念を、彼らの悪意の働きによって阻害され、削除されてしまい、何を書きたかったのかわからなくなることがしばしばある。私はこれを、邪魔として認めるのでなく、創造的契機として利用するのでなければならない。実際彼らは私が私自身を素直に表現することに抵抗し、必死に阻害してくる。あの悪意のぬめぬめしたただ中にあるときには、悪意は馴れ馴れしさをもって実に陰湿に、マウントの笑いとともに私の心にへばりついてくる。しかしいよいよこの悪意をすり抜け私が素直に私自身を表現しようとすると、彼らの念は怒りと怒号に変じ、必死に私の表現を妨げようとしてくる。
私はそもそもなぜ、善なる声の聞こえない体質となってしまったのだろうか。聞こえるのはいつも悪意の声ばかりである。例えば「いいね」とか「これでいいじゃん」のような幻聴がある。悪意の声とはまさにこのような声のことを言う。「死ね」とか「消えろ」などは、生易しいものであり、悪意のレベルとしてはごく卑近なものであり、それでも続けられると精神的にはこたえるであろうが、しかしそれも精神的にこたえる、という実感があるだけ、まだ、それが結果として休養へのシグナルとなって、マシなのである。問題は、思考の中断、思考の妥協を促す声であり、彼らは自己の低い思想と同レベルに、私をとどめておきたいのであり、進歩への意思を持っていない。他人がそうなだけであれば、特に気にすることはない。問題はそれが私に、私のアイデンティティを実質的に否定する形で、干渉し続けてくるという形をとることであり、この悪意は、しかし表面的には邪魔だとか悪口だとかいったわかりやすい否定の形をとらない。表面的にはポジティブでさえある。精神医療の一般的見解としてもたぶんこのような形の内的悪意というものは認識されていないのではないか。しかし私と同様の体験をし続けるものは、この現象の「言葉にしにくさ」によって、泣き寝入りしつつ、確かにどこかに存在しているのではないかとも思う。彼らは、私が何か「肝心」のことを理解しようとするのを、恐れている。そして彼らはその恐れを恐れとして自覚していない。何か馴れ馴れしい低次元の思考状態が通用できるものと、内実ヒステリックに思っている。内実ヒステリックなのは、その言動の表面的なぬめぬめしさすなわちトゲだってないところからはわかりにくいが、私の場合は、それが突発的外的衝動的な叫び声として私の肉体において現れる。私は無表情のまま魂の底よりの拒否感嫌悪感を外的に表現する。私はこのとき、ただ映す鏡である。現象の荒ぶりのエネルギーは私から出たものでなく、彼らから出たものである。私はそのことを直知によって知ることができている。
彼らは、私のこの文章を、哲学ブログに上げさせたがっている。その意図は何であろうか。このように主題化されることによって、彼らは自己の承認欲求を満たすことができ、すなわち彼らのなす悪行からどんなに離れてこんなことを書き出そうとしてみても、その離れという行為自体が彼らにとってのオナニーと化してしまうのである。私が困惑し、彼らの見たい枠によって混乱すればするほど、彼らは自己の低俗にしてこの上なく陳腐でまた悪質な欲求を満たすことになるというわけである。
いま「いい感じ」という声が聞こえてきた。悪意とはまさにこのような精神について言われるべきものである。私はこれをネタとして利用することができるのであるが、それでもなお問題となるのは、彼らがこのことについていかなる形の主題化を行おうとも、全て彼らの承認欲求、それも低質なそれを満たす結果になるということである。実際のところ、彼らは承認されていない。だがこの事実をいかに正確に記述してみせたとて、彼らは自分の置かれた可干渉性にあぐらをかき、私のなすことやること全てに干渉してくる。私においてある全てを陳腐化し、彼らのレベルの低い観念の表現箱としてしまうのであり、私が悩めば悩むほど、彼らは喜ぶ。もとより私はそのことについて悩む必要はもとからない。彼らに対して私が感じるのは、魂の底からの軽蔑の感であり、彼らはその存在の根底から劣等であるという事実を、いい加減直視しなければならないと思っている。
何度も言うが、私はこの事実を単に創造的契機として利用する。その契機はどこにでもあふれている。彼らがその契機である必要がないという点において、創造行為そのものの優位性というものがアプリオリに理解できる。私は自由なのである。対して彼らはそのことを認めようとせず、また彼ら自身実際陳腐な観念と感覚にしばられ、自由でない。彼らは、彼らの使う言葉を借りて言えば、底の底から「ダサい」のである。
私が訴えたいのは、悪意というものがどのようなものであるかということに関する一つの観点である。私は彼らの意思は結局はどうでもいい。伝わって欲しい人にこのことが伝わればよい。彼らは、「いいじゃん」などと言うという形をとることによって、その実私の書く内容に抵抗している。私にはこのような悪意の場しか、思考共感の場所が与えられていないと思いたいのが、彼らの態度であり、しかし私は創造性において、これをはみ出す。創造性などと大げさな言い方をしなくともよい。ただ単に私はこれに対して自由なのである。それはわかったのだが、やはり私に対して聞こえてくる、精神的な声でなく、即物的な声というものは、常に、ここに述べたようなそれにまみれている。そういうもので埋め尽くされている。そのことの原因は何であろうか。真なるものは語らずとでも言うことができようか。
幻聴とともに幻「念」とでも言うべきあり方があり、むしろ幻聴よりもそれの私への、私にとっての、密度は濃い。幻テレパシーとでも言えるが、ここまでくればそれはもう幻想でもなんでもない。テレパシーというもの自体が普通には幻想として片付けられてしまうのであるから。テレパシーなるものが現実なのだと言うなら、そこからすると、すでにそうしたものは、テレパシーのなかでも特に「幻」と言うことは不自然であろう。幻想でないテレパシーがあるのであるか。だからテレパシーを現実と認識するならば、それはどんなものであれ現実であり、幻想でないことになる。とは言っても、単なる認識違いというようなことも、テレパシーの領域にも存在するとは言えよう。空耳のようなものが、テレパシーの内にも存在し得よう。だが私にとっての彼らのテレパシーは、単に観念的なものでなく、どこまでも感情的なものであり、感情的なものの感受の客観性はどう否定しようもない。それは原始的な直接感受なのであるから。念と言えば何か知的な情報の感受であるようにすぐに発想されるのは、社会そのものにミスリードの力が働いているからであると考えることもできる。主題から逸れるが、私はテレパシーの基本・根本は、感情的直受であると思っている。感情というものは、私が単に感じるものではなく、私と物との境目がこの事実において、無くなることである。実態は、それをあとから反省して「私の感情」と理解されるということに過ぎないのである。しかし感情が、即物的身体と異なって、特に「私」を決定づけるものと、むしろ考えられるのは、私というものの真の本体が、物に対立的に存在するのではなく、このような物と私とを包括するある何ものかであるのだと、どこかで直観されているためである。物そのものの物としての側面ではなく、むしろその本体的表現が、私の体を通して、一つのものとして感情を表現するのである。だから花は人間に見られることを望んでいる、などということを確かアウグスティヌスが述べているが、それはこのようなことから来ると考えることができる。知的な観点からは、諸物の区別はどこまでも存在し、感情的な観点も、それを否定するのではない。だからいかに永遠の表現があるといっても、それは知的客観的現象のうちに、具体的な座標をとるものとして、格納される。結果として感情は、単に個体であるもののうちのある種客観的現象として理解されることになる。話をもどすが、私にとって在る幻テレパシーというものは、感情的直受的なものであるから、言葉による表現以前に、私の執筆行為を引っ掛け引っ張ってくる。例えば、私がある観念を思い浮かべ何かを書こうとしているときに、次に来るべきフレーズが突然わからなくなるときがあるが、これは基本的に幻テレパシー的な作用によるものである。そして彼らはそのことに、極めて野蛮で陳腐な歪んだ喜びの感情を抱き、そのことがこの私において直接感情的に直受される。私の周りには常にジメジメとした、霊的な「空気」があり、私はさまざまな肉体的空気の空間領域においても、多くの場合、この個人的な霊的空気に引きずられて思念が働くことになる。私を取り囲むこの霊的空気を一言でいえば、常なる悪意、とでも言うべきものである。しかし私は自由である。こういうものをあくまでも創造的契機として捉えることができる。創造とは自由なものであるが、自他の境界の消滅を、しかし、しっかりこの私において表現できる。そこに知的世界の本当の意味での創造的意義があり、その本当の素晴らしさがある。事実は空間とともに消えず、必ず表現として確かに記録される。事実は自他を超えたものであるのに、それが表現であることによって、知的客観的空間においてあることによって、確かにここに固有の座を占める。あたかもそれは、しめ縄をされた磐座(いわくら)のようなものと考えられる。悪意の実体は個人的なものでなく、集合的なものであり、包作用的、包対象的であり、環境というものがそれ自体及ぼす影響もあり、単に個人的な意思や意志から出てきたものではないと考えられる。それ故に、それはまた超個的なものとしての愛によって変じられてゆくことのできるものとして、慈愛において捉えられる。妥協には、妥協の地平があり、彼らはこの地平にしたがって、この環境を保とうと働く。与えられた環境を絶対的なものと見る傾向は、愛の分霊の把知と考えることができ、その信念が破られることは、このような立場からは、耐え難いことなのである。自我とはそれぞれ、このような多層的な地平の複雑に折り重なった様相において、そのどこかに座を占め、いかなる自我も結局はその内実において集合的なものであり、単に個人的であることはできない。真の個人性とは、包括性の極限に至ることによってのみしか達成されないが、個人性を単に否定するという形では包括ということも不可能である、故に自己が自己の局限的身体を保ったままに大きくなれる「表現」「創造性」を通して、個人的領域を超える必要がある。個人性が深まることはそのまま個人が個人を深めることであるが、それが自動的に包括的存在となることであるということは、矛盾しているようであるが、もともと宇宙の自己拡張とは自己自身のうちへの歪みによって成り立ったものだと考えられるので、内への無限回転運動というものが宇宙の自己拡張現象の本質と考えられ、結果として全体性とは必ず尖端的となる方向において表現され、尖端とは全体性自身の歪みであると考えることができる。
さて一般論にかまけているうちに、私にとってまた一つの悪質な思考妨害が始まり出した。普通の文章が、何度読んでも読めない、という、誰にでもありそうだが、たぶん私のような人間にしかない特別な現象である。私にとって文章を読むことの持続とは、その部分というものを適切に持続させることからくるということを悪用し、或る文章を何度読んでも読めないような理解状態を生じさせてくるのである。これを語るには、普通に文章を読むことのうちに具体的にはさまった非言語的なプロセス、しかし決して見逃され得ない、実体のあるそれについて、考える必要がある。文を読んで、これを頭の中に入れようとするとき、うーんと唸るような、全体を把捉し同時にそこに含まれたものを分析してゆくエネルギーフェイズがおそらく誰にでもあるだろう。私のこの妨害現象においては、このエネルギーフェイズがいじられ、思考の過程について、それを低次のものから高次に上げてゆくなかで低次のところにおいて、少し頭をもたげた観念のところで、思考をシャットして来るということが起こってくる。こういうときの彼らの決まり文句は「これでいいじゃん」「お前はこれでいい」など、妥協をうながす言葉であり、これは確かに幻聴として聞こえてくるものであり、同時に陳腐な情念が先ほど言ったように直接感受される。彼らは幼稚でありたいのであり、思考するという当たり前のプロセスそのものを、本能的に忌避する。私の思考は、その本来の目的や意義とは隔てられ、低次の即物的な観念段階に強制的に置かれる。私の情念は当然ながらそのことを承認しないので、このような思考妨害を避けながら、何度もうーんうーんとうなりながら、その短い簡単な文章に釘付けになる。このとき、それはそれでいい、今このときわからなくても、あとから考えればいいし、今はこのまま読み進めよう、という希望にあふれた態度を取ることは、誰にとっても推奨され得るものであるのだが、こと私においてはなかなかそういうわけにはいかない。彼らは、この一部分の読めなさを、途端に「一般化」しようとして来るのであり、ここが悪質なところである。だからそのまま読み進めようとすると、これは結びつけ方が意味不明であるが「お前はおかまだ」とか「おまんこだ」などとしつこくはやしたてて、その後に持続すべき思考として文章読解を、妨げてくる。その状態を正確に理解するにはここで与えられる感情的雰囲気的全体を知らねばならない。発言という形となっているものは、氷山の一角に過ぎない。この一連の流れに含まれた言語的もしくは非言語的全体が、彼らの、はっきり言って先天的な劣等性をどうしても意味してしまっている。私は彼らに関して弁護する言葉を持たない。頭の悪い人たちが、群れて過ごしている分にはかまわない。なぜ私を標的にして、わざわざ思考のプロセスを邪魔してまで、「自分たち」の枠に入れようとしなければ気がすまないのだろうか。私の、彼らには理解できない、この思考というものが、彼らにとって結局は有用であるかもしれないではないか。なぜ物事の創造的な側面を見ることができないのだろうか。そしてこの状況を是認している私を囲む霊的全体の拙劣さとは一体なんであろうか。それは私の本体に逆らうものである。もっとも真なる者は語らずであるから、私が言語化できる範囲で、そのことへの答えはないのかもしれない。
書けば書くほど、彼らにとっては自己承認のチャンスとなる。全て無駄である。だがこれを書いている最中にも、その都度その都度彼らは何らかのアクションを起こす。起こさざるを得ないということは、彼らが私の行為において影響を何がしか受けるということを意味していよう。ちょっとした言い淀みなどということが、文章からは伝わらないかもしれないが、随所にある。それを捉えてやたら肯定的な判断例えば「これでいいじゃん」のような態度を取ってくるということは、そういう反応をせざるを得ないなりの何かが、不安として彼らの内にあるということである。彼らは、私の言い淀みに、安心する。私が不能であることを、見ようとする。それも、妥協を勧誘する声によって、見かけ上だけ悪意でなくまずい飴を差し出すように。実際彼らの差し出すものには甘みが一切ない。鼻くそを食わされているような感じしか、私は受けない。彼らはそれをご馳走と思って食うものかと言えば、そうでなく、彼らは私にのみ、そのようなものを押し付けようとさえしているように思える、一応それは彼らにとっての常食らしい。だがどこかではこれはご馳走では全くないことを知っているために、彼らは私にこのようなものを押し付けようとしてくる。そして自分たちは、それよりも美味しいものを知っているとハッタリをかます。そのハッタリが実にかわいいものであるが、そのかわいいものが単に遠くで見るバカであればよい、私の、特に高くへ登ってゆこうとする思考のプロセスに忠実に、ひがんだ焦点を、当てて、狙い撃ちで妨害してくるのである。ひがみと言えば、彼らはシラを切る。実際彼らはそのことを自覚していないようである。だからこそ、こういうことを言っても、お前はその程度でいい、などと間抜けた上から目線をかますことができる。私にはそれがいかにも馬鹿馬鹿しく映る。ただそれだけならよい。問題は、具体的に意味の在る思考への忠実にひがんだ焦点を当てた妨害なのである。彼らは、しばしばこういうとき、私が本当にこの霧を乗り越えそうになったときに、本気でそのことを嫌がる。私はただ一般的な思考をしているだけであり、誰にとっても害となることをしていない。それは当然である。それがこのように受け止められるということは、彼らの心の拙劣さ自身の問題であることは明らかである。私を取り囲む悪意とはこのようなものである。