一
私の身体とは私の無意識の総体ではないか。無意識とはあらゆる法則であり、のちに述べる人文法則をも含んだものである。それは物理的、化学的、生理的、人文的法則を縦の系列として含んでこれを包むものであると考えることができる。私は身体というものをこうした系列の肉的表現としてその媒介者として考えることができると思う。
私は行為的直観というものが、いわゆる表現的あり方の媒介となるのみならず、科学的判断の根拠であるとする西田幾多郎の見解の理解に苦しんだが、それについての一つの答えを与えるために本稿を書いてみようと思った。この問題を考えることにより、想像以上に多くのことがらが見えてくるようになった気もするのである。
二
直覚自体というものが現実の物に遊離して存在するのではない。直覚は全て行為的なものでなければならない。行為的にわかるとは、全世界そのものへの直接作用点がわかっているということである。ボタンひとつで世界そのものに直接する、実験装置が物理法則自体に直接することと同じことである。実験的再現性が法則の確定にとって必須なのは、単なる理性的思考による帰結は、行為的に物理的次元に作用しているわけではないということからである。無論全ての作用は全てへの作用であるということからは、単なる理性的思考も物理次元に何らかの意味で作用しているとは言えるのであるが、それは常に、物理次元においてその思考の指し示すところの具体的何物かがそこに作用するということと、その思考自体との、必然的関係の抱き合わせがあることによって、はじめて理性的思考の物理次元への作用性ということが言われるわけで、しかし単なる物理次元的作用のみが真の作用であるような世界においてはいかなる理論も成り立ちようがないということから、物理法則というのは具体的物の法則でありながら常にそれは内側から物であるということを超えて要するにそれは法則的として一面具体的物を超えた理性的なものすなわち法則的なものであるのでなければならない。単なる法則という眼差しが具体的な物において眼差されるとき、そこにはかえっていかなる法則的言表もあり得ず、そもそも法則の法則としての認識もいかなる形でも存在し得ないことになる。具体的な物がただ働くというそのことからこれを超えないのであれば、そこに法則というものをその視点からは認めることができない。*1実際に法則というものはしかしあるのである。かといって物を超えた法則自体というものがただ思考から考えられるとして、そういうものが実際の具体的物の物理法則であることはできない、なぜならその思考と物理次元とを結びつける根拠が全く不明瞭だからである。思考は物の世界そのものの内から出てくるのでなければならない。物理的な物はそのまま自己矛盾的に、自己自身を超えた観点を持っているのでなければならず(私のいわゆる「状態子」的に)、物理的なものが自己自身を対象化してしかもそれを超えたところに真の意味で自己を持つということから、人間身体が身体でありながら身体を超えたものであるということが考えられるのである。実験における様々な条件によって枠づけられた科学的物というのは、一時的に私という霊*2の身体になったものと考えられ、その物自身が自己の本体をそこで明らかにされる科学的帰結その思考過程そしてそこから得られる何らかの法則的結論の内に持つのでなければならない。そのような限定的生命がしかし本体においては永遠のものであるということは、物理法則の解明の局面からも言うことができ、してみると私の身体というものもこのように限られた生命を持つものでありながら、その本体においては法則的に無限の永遠のものということになるのである。ここで大事なのは、それは法則的な無限さ永遠さということであり、私が私の身体を対象化できるということ自体が、私の身体が理性的な精神的なところに本体を持つということであり、確かにこの身体が死すればそこにはまた別の次元の私の身体が立ち現れてくるのかもしれないが、それとて常に身体という対象化を受ける一時的な生命体であり、それ自身永遠のものでなく、むしろ永遠はそれを対象化するあり方そのものの内にある、引き延ばされた時間でなくむしろ「無時間的」「概念的」なものにおいて存するものと考えられねばならないのである。それは物理法則が永遠のものであり、最小の物質単位が永遠のものであり*3それが法則の行為的尖端的・表現的シンボルと考えられるのと同様の意味である。しかし単なる法則というものそのものに至ることはできない。そこに身体というものはなくなってしまうからである。したがって単なる永遠というものに我々が行き着くことは永遠にできない。我々は限定的なものとしてのみ、むしろ永遠であることができる。滅びゆくものであることによってのみ、時間を超えることができる。それはむしろ我々は死んでも死なないということでもある。それは論理的な真実であり、そのことが偽なのであればあらゆる論理というもの自体がそもそも偽であるということを言っているのに等しいのである。本来コギタチオの明証とは、デカルトやフッサールが意図していたか意識していたかによらず、そのことを意味していたと考えられるのではなかろうか。
さて私はここに物理法則に対して人文法則なるものがあるということについて論じてみたい。人文法則として抽出できるものは何かと探し求めたときに、転生時の厳正厳密な手続きということを考えれば、これが大きなヒントになるのではないかと私は考える。カルマという概念も、それにくっついてくる様々な思想的夾雑物を排除して考えれば、大いにここに直接関連してくることがらである。人文法則と言い、物理法則と言い、我々の世界の事物は法則的に成り立つと考えられるのであるが、しかし物が法則によって作られてもその固有の個性的な運命を辿ってほしく、結局それらはだれかの所有物となることになるのは、我々は物を魂において捉えるからである。とはいえ、少なくとも、人文的個体がそういうものとして現れ働いている以上はそうしたものがそうしたものとしてあるところの法則が存在せねばならず、人文的個体はこの法則の行為的尖端的・表現的シンボルとなって働くのでなければならない。ただしここでのシンボルとは、芸術的なそれというよりも、もっと科学的に厳密な意味でのそれである。それはシンボルというより表現点・表現要素もしくは作用点・作用要素と言ったほうがよいかもしれない。古典力学における質点のようなものである。先の段落における議論の欠点は、私の身体が、物理的物の要素と違って朽ちてゆき分解されるものであるという点にあり、この点を考えればこの議論は致命的であるようにも思えるのであるが、少し整理すればこの懸念は解消するであろう。まず実験装置や実験条件によって枠づけられたという意味での物は、そのとき限りの物であり、同じ「物理法則においてあるもの」といえど例えば原子と実験球というような違いがあると言え、原子という概念上は不変の永遠のものがあるということと、物理要素が限られた命のものであるということとは矛盾するように見えるが、このように考えると矛盾しない。ただし実験には再現性ということが大事であるから、枠づけられた物というものも、いくらでも再現し得るものとして、観念空間上は永遠の個体としてそれらはあるのでなければならない。観念空間上に永遠にあるが、実空間上に限定された命としてあるものは、それは法則において真の自己を持つものとして、常に原子即包むものの観点(状態子的に)から、しかし永遠にそれに辿り着き得ないものとしてモナド的に永遠の生命であることができるのである。私はこれによって原子というものが少なくともその概念の厳密な意味で徹底されるとき、対象的にはいかなる仕方でもそれとして発見され得ないことを証することができたと考える。人文法則というものについても同様に考えることができ、我々は観念空間上は、人間という「種」としてどこまでも生命を保ち続ける要素を考えることができるが、それは実空間上は朽ちほろびゆくものである。しかしこれも人文法則の理念的最小単位であるモナド(霊)即包むものという観点から、しかし永遠にそこに辿り着けないものとして、永遠の生命を持つことができるのである。特に物理的観点から原子と理念的に言われるものは、人文的には霊と理念的に言われるものにあたり、それらは実はモナドとか状態子という概念によって、本質的には同一のものであるのでなければならない。しかしそれは対象的な同一ではないから、対象的にはそれぞれのレベルに応じてどこまでも区別され、別々の本性を持つものとして考えられねばならない。別々の本性でありかつ同一本性であるということがこうした法則即モナドというあり方においては言われねばならない。モナドは別の窓に辿り着き得ないということからは、それはどこまでも個別的であるが、まさにそのことにおいて非対象的にそれは全を自らの内に収めていることから、自らの姿を法則的に明らかにするものとして、物理法則、生理法則、人文法則等においてそれぞれの厳密な要素単位を我々は自ずから求めるのである(理念原子や細胞や霊といったもの)。人文法則を超えて霊的法則というレベルに至っては我々は遍在する神という概念を捉えざるを得ない。それは思想的にはアニミズム即一神教即一切衆生悉有仏性とでも言うべきものである。しかしこうしたものは対象的には捉えられず、しかし捉えざるをえず、そして捉えたものはあくまでも限定的生命として、それは十字架に釘付けられて一旦はその命を限るもの、末法的に全ての衆生に教えが行き渡らなくなるもの、そうした性質を持つものでなければならない、宗教も身体的なものでなければならない、教祖良くても取次が慢心するようなものでもあるのでなければならない、そこから我々は身心脱落的に、各々の自己自身の固有の真の宗教を掴む必要がある。そしてこれらは全て法則的であると言え、キリスト教ではこれを聖霊と言い、仏教ではダルマに従うと言い、日本神道では惟神の道と言い、日月神示では赤子心になって聞くべしと言うのである。日月神示ではこうした実存を特に神人(かみひと)と言う。*4
*1:一面認められるこの直観は実は具体的人格感の根拠でもあると言える。我々は普通人間対人間というあり方をこのようなものだと思っている。
*2:それすなわち私の日常的自己にほかならないのであるが。
*3:現在の物理学での超弦という概念はこれに近接するか。
*4:私は本稿では特に法則的ということに重点を置いて語ったのだが、個性的生命とは常に法則的でありながらも、絶対に法則化できない個性的運命というものを持つ。そして法則とは本来そうしたものに名付けられる名であり、あらゆる縛りというものが、実はそれが法則的であるということへの自覚において抜け出されることが可能なのである。これを身心脱落(しんじんとつらく)と言うのであろう。法則を掴むというのは、法則から自由になる、その全体を見る、その全体への直接作用点を自己のうちに持つことにほかならないのである。そして我々はどこまでも法則的であることによって、己の個性的キャンバスの上に、どこまでも自由に己の絵を描いてゆくことができる。