情に訴えかけるものはわかりやすく、自分の情に関係なく義務的に読まざるを得ないものに関しては、なんだか諸情報が分裂して映るものである。わかりやすさは間違いに走りやすく、わかりにくさはうまく(読み・書きともに)実現すれば正確だがそこに辿り着くまでの道が険しい。割り切って、どっちかの行き方に行けばいいのかもしれない。しかし私は欲張りなので、自分の述べることは、なるべく情というものを情に即して透明化したものすなわち理性化したものを文章として残したいと思って実際にそのようにしており、しかも私が求めているのは単なるそのような情でしかないのである。なぜそうしたいかと言えば、情には、その展開面というものが伴っている必要があり、それが展開して実現することによって情は情として真に満足を得ることができるのである。私の書くところのものは、このようなプロセスをともに歩むことに情の本体において同意する者にとってのみ意味を持つと、少なくとも私自身の意図からは、言える。書く方は身勝手である。情こそが全ての手にとれる観念的なもの・物体的なものの統合原理であるから、それに沿って、情の自己展開にとって必然的なプロセスをそのまま歩んでゆけばいいだけのものだが、私はしかし読者にとっては、情の実体として掴み難い、最終的な展開形をのみ手渡されることになるような、そういうものを完成品として差し出すことになる。私は情の起点を知っているから、その自己展開のプロセスというものがおおよそどんなものであるのか見当をつけることができ、そこにそういう情報が挟まることの論理的な意味を一応は、あとで読み返したときなどに、了解することができる。だが読む方にとっては、読むその各時点が、情というものをひとづかみするための大切なきっかけである。私は文章を書く責任として、なるべく単に要素的でしかないもの、歯車でしかないものを、展開に使わないようにし、あちらこちらに、全体としての情を表現する特殊の「非言語的文法」というものを散りばめておく必要がある、ということを意識したい。私にとっては単なる情の展開でしかないが、読む方にとっては、情の「掴み」という全体的作業の骨折りを必要とするものであってみれば、文章を書く方の責任としては、文章全体を、情の響き合いの空間に仕立て上げる必要がある。そこに丸山眞男などの使う通奏低音というような文学的修辞としての音楽用語も、生き生きとした意味をなすようになるのである。
私の、文章を読むときのモヤモヤというのは、情が掴めず、したがって各語のそれぞれがなぜそこにそういう仕方で配置されているかということがわからないことによる。私は丁寧に読みたいので、一文一文を、情の自己展開の歯車的要素、大切な一歩一歩として読む。しかしそれに従って読んでいっても、肝心の情の本体が見えてこない場合、すなわちそれが私に覆い隠されてしまっている場合、私の目には、いかに表面上論理的にそれらの語がつながっているようでも、それらがどこまでも分裂的なものとして映ってくるのである。情というものは、展開と一つになったものであるので、本来ならば、このような牛歩によってたどられた精読というものは、最終的に綺麗に、その情の本体に行き着くはずなのである。だがそれが見えてこないというのは、一つは私がそれによって指し示される情を自己の情として理解できない、ということがあるのではないかとも思った。その場合、私があまりに陳腐なものに対しているという場合と、未知の情に出くわしている場合とがあろう。哲学というものは大抵後者であり、それに限らず数学というものも要するに私にとっては基本的にそういうものである。あとにのべることにかかわるが、情が自己の情として理解できない場合でも、文章とは表現なので、己が言わんとしている以上の深い情的本体に表現を触れさせることはできる。
さて表面的なあからさまな情に訴えかける文章というのは、一応はこういう問題を乗り越えると言うことができる。だがそれには実在との結びつきが薄く、未展開の観念エネルギーを間違った方向に増幅させ、その者をその人自身の情の自己展開において間違った方向へ導く可能性が常に存在している。情が理性化するということは意味ないことではなく、それがきちんと地に足を着け、多様な観点からの批判的検討にたえるものであることを証明する一つの基準であり、その情が単純に言えば善なるものを指し示すための大事なプロセスであるということが言える。私は情の問題を単純化して、ただその展開の働きとして、文章化ということのみを考えているが、実際にはそれは生活の無数の情の展開のあらわれとして存在するものであり、事実あらゆる観点からの情の相互限定の働き合いのなかにおいて、風化しなかったもののみが真の共同的情としてのこると言うことができる。情を理性化するということはたしかに大事なことではあるが、それによって、読む者が,情をそこから掴むための取っ掛かり、いわば作用点のようなものを文章から失わせる、あるいはその前後の純論理的秩序にばかり(スイッチを押すような機械的な仕方で)頼るというということがあれば、かえって読み手は、とんちんかんな取っ掛かり方をその文章から見出してしまい、そこからわけのわからぬ結論に至ってしまうおそれがあり、また良くて、その文章が何を言わんとしているかさっぱりわからんことになるということもある。文章とは空間的なようで実際には前後の関係に頼る時間芸術であるので、機械的な文法的関係の仕掛けが確かに大事であり、それは尊重される。しかし実際にはこれは視覚情報として空間的なものであるので、もっと響き合いということが重視されてよい。もちろんベースとなっているこのような時間性・機械性というものは尊重された上で、我々は一つ一つの語が、あくまでもそこに星座のように配置されたものであるということを意識してみてもよいかもしれない。書く者は知らず知らずのうちに、論理的順番を必ずしも厳密に決定できないまま文章を書き出すことがある。それはあたかも色と形との溶け合った空間を一つ一つ手探りで手繰り寄せてゆくような作業である。その空間は情に満ちており、機械仕掛けのモトとなるような単なる意志的な男性的なものではない。この情の空間にたどりつくということが、しばしば詩人の(無意識的にかもしれないが)求めているところであると私は考える。詩人に限らず、我々は少なからずこのような繊細な柔らかいものに触れたいと思っている。論理的順番が必ずしも厳密に決定できないのは、このようなモトの情の空間が複雑繊細で柔らかいからであることがしばしばあり、その手繰り寄せ方には一人一人のさまざまな意匠が存在しうるからである。そしてそれぞれの手繰り寄せ方が物語となって我々の前に現前する。手繰り寄せ方にこそその人の個性が宿り軌跡が刻まれるからである。このようなものも、文章となるにあたっては、丹念に理性化され、展開されねばならない。情の空間そのものを我々の干からびた無味乾燥な認識界にそのまま持ってくることはできず、できたときにはそれは腐りかけている、もしくは腐敗しきっている。我々はふんぞりかえってこの情が流れてくるのを待つのではなく、自分からそこに、手繰り寄せられたツタをたどってアクセスしてゆくということをむしろ積極的にする必要がある。もちろんツタに掴まればそこに情から流れてくる妙液というものもある。そういうものが受け取れるのは、我々の身体というものが実に柔らかい繊細な器官によって出来上がっているからでもある。だが受動的な態度でいるままでは、結局ツタの枯れるのに伴って滋養液の途絶えが起きてしまう。滋養液自体も、情の本体そのものではない。我々はいつしかみずからの言葉でそれを語るようになる。すなわちみずからのツタを情の空間へ繋げるようになる。表現することによって、単なる読者であったころにはわからなかった、ある語と語との配置の妙というものも身体感覚でわかってくることがある。それも全て物語的一般者のなせるわざである。一般者とは先立たないことにおいて先立つものであるところのものである。一般に神は最後にあらわれるが、そうであるためには最初にあったものでなければならない。しかしそれを最初から掴もうとするわけにはいかない、そこには理不尽の、神ならぬ神があらわれてくること必然である。一般者という概念はあたかも、深い趣旨を理解し、論述するための前提であるかのように、哲学論文からは受け取らざるを得ないのだが、それは実はXなのであって、それそのものとしてのそれは、最後に受け取られるべきものである。彼らはそれをわかって書くのではなく、あるいは分かり切って書くのではなく、己の未来すなわち希望に向かって書き進めることによって、発見するのである。その発見の脈に至るまでのこの言葉は、あくまでも、情の本体に辿り着くまでの仮のツタというべきものである。概念は何度でも新生する。哲学ではツタをなるべく一本化する、すなわち多様な物語を一つの歴史的実在性というツタにズン太にまとめあげ、そこから集団的に、情の空間に至れるような道を工夫して作る。そこには歴史的なあらゆる知恵がある。しかしこのツタは、妙液の流れる場所に過ぎないのであって、情の本体そのものではない。それを誤解することから、哲学の無闇な観念性の牢獄というものがはじまる。哲学に疲れたならば詩の畑、音楽の畑をのぞいてみればいいのである。趣旨を掴もうとするという一見本質的でしかない読書の仕方も、実はそういう囚われであることがあり、そういう人には、無味乾燥な哲学研究というものがかえってリフレッシュと視野拡張によいものであることも大いにありうる。
望むのは、私のこの執筆が、できるだけ情の空間そのものの写しとなって、そのありように近づくことである。情に訴えかけるシンプルな言明は、いまだ観念的である。それ故に現実にどんな暴走につながるかわからない。理性化し切った論述は、かえって分裂的である。意志によって主導され一本化させられた重厚な論述も、結局その意志の軌道に乗れないものにとっては、わけのわからぬ取っ付き方やそのままわけのわからなさを与えかねない何ものかへと陥る。文章に一貫性があって、かつそれは内部に空間的に響き合うありようを持つというのが、まあ人間の性質すなわち繊細の精神の空間を己の深い本体となしてここに結びつくというあり方と照らして、一つの理想的な哲学的現出である。