山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

無知を直視せよ

無知を無知と認めることのできない人たちが私に指図してくる。無知を無知と認めることを恐れているのであろう。なぜ指図する必要があるかと言うと、自分の無知を認められないからである。本来なら、ともに知へと向かう姿勢があるはずで、変な指図行為はそこに存在するはずはない。無知を無知と認められないから、私を歪めることによって、そのことを解決しようとする。私を、彼らと同じ無知へ引きずり落とすことによって、彼らは自尊心をかろうじて保とうとする。無知を直視する前に、そのような態度への道そのものを遮断することによって、彼らは直視するべきことから逃げる。だから、私が、悩みながら、思考に苦しみながら、よくわからないものをつかもうとしながら、こういうことを書いていくと、「非常に良い」という反応が来て、それによって私の思考プロセスを妨害してくる。しっかりとした理解に至るその直前の段階で、私がこうして悩みながら書いていて、つかめるものをつかみかけそうになった段階で、彼らは、理解をシャットアウトしようとするのであり、つまり私を未理解の段階に落としたままであらしめようとしてくるのである。彼らが良いと判定するのは、全て、私が確固たる理解に至る前の段階を、こう書きながら何とか形を掴もうと努力して、しかも理解への未遂がある、そのような段階においてである。つまり私は、彼らを出し抜いて、確固たる理解に至ってはならないのであり、もしそうなってしまったら、彼らは自己自身の無知に直面しないといけなくなるのである。だから必死こいて、私のつかもうとして未だつかめていない状態を、推してくるのである。

無知を無知と認めることができたならば、思考のプロセスの完了するまで、ゆっくりとそれに付き合うことができる姿勢があるはずで、思考を中断させるような途中での「非常に良い」などという評価を与えることなどできないはずである。思考に苦しむなら、それにともに付き合い、プロセスを進行させてゆくためのヒントを、その時その時に応じて適切に与えてゆき、プロセスの完了へ導いてゆく、という態度が、周辺霊としての、当然の態度であるはずである。しかし彼らは無知を無知と認めない。だから、それを直視できず、自らも、私とともにある思考のプロセスに、自分自身を置くことができない。結果として、私の思考途中の段階において、これをシャットする形で、私に評価を与えることで、私ともども無知の状態に置いておこうとするのである、彼らは。無知を無知と認めないための策が、「非常に良い」という評価だったり、指図行為だったりするのである。


指図と書いたが、それは具体的にどういうものだったかなあ……書いていると思い出せなくなるのである。思い出したら、具体的にどんな指図をしてきたのかについて書いてみようと思う。どうせくだらないことであり、わざわざ書くほどのものでもなかろうが。*1

ともかく、彼らは、無知を、そうと言わない形でしかもそのまま正当化することによって、それを直視すること、進歩することから逃げている、ということである。

*1:思い出せたので追記する。例えば、日常の細かいことがらについて、「お前はこれでいい」などと言ってくる。日常の細かいこととは、ちょっとした決断とか日常のある固有の状況についてである。例えば、うんこをしているときに、「ここまでうんこが出せたから次に紙でケツを拭こう」とするときに、「これでいい」と言ってくるというようなことが、頻発する。つまり自分の自然なフィーリングから出る行為であるのに、あたかも彼らが私に対して指示命令操作してなされた行為であるかのように、その行為が彼らの意思によるものであるかのように見せつけようとしてくることである。こんな類の、ちょっとした場面における胸糞事案が多発する。