我が人生は、中の人の干渉によって、詰んでいる。このことを書くことも含めて、彼らの喜びであるようだ。一体私はどこへ導かれているというのだろう。導きは必ずある。求めるものは必ず与えられる。私にそれはないのか。平凡以下の思考力しか与えられていない状況で、状況打開などということが考えられるはずがない。
私がこういうことについて書き出すとき、中の人たちは、先刻承知というような反応をする。私が愚痴愚痴とこう語ることは、彼らにとって何とも言えない習慣化した喜びであり、私への最大限の屈辱行為であるらしい。私は確かに、彼らの低劣な精神から、精神的混乱、不成長への傾向性を与えられている。本来、成長へと導くのが、彼らに与えられた使命であるはずで、その真反対のことを、守護霊の公認のもとに行われるということ自体が、あってはならないはずである。一体私はどこへ導かれているのだろうか。
散漫な思考力、その連続、それへの無数の抵抗、しかしその無意味。彼らは私を何だと思っているのだろうか。彼ら下等霊存在から得るものはない、反面教師的意義のほかに。
そして今日も私はこのくだらない日記を更新する。
いや私はウパニシャッド的あり方のうちに生きたい。そこには観念の牢獄的なあり方が含まれているかもしれないが、彼らの醸し出している低劣馬鹿の牢獄に囚われるよりはどれだけマシであるかわからない。実体、属性、運動、普遍、などと言われても、何のことかわからない(https://youtu.be/i_GX0qVq6rc)。まずこれらが頭の中の反芻努力によって理解できる当たり前の頭の使い方ができるようにならなければならない。というよりも前にはそういうことはできた。今は全く中の人の思念妨害活動に妨げられて、できないようになっている。彼らの妨害活動は、全て浅はかな価値意識に基づいていて、私はそこにおいて、ひたすらな陳腐との闘いを演じなければならない。非常に薄っぺらい私への私像の押し付け、念操作、これらと戦わねばならない。具体的には、私が思考に沈潜していこうとするときの努力を、私をゲイ扱いしようとする思念的働きによって妨げてくる、といった行いがある。私は異性愛者であるが、こういう場面の多くの場合において、強迫的に、こういう意味のない低劣な妨害行為が行われるパターンがある。
私は彼らの低劣さを語ることに関しては、やたら饒舌になることができるようである。しかしこれは好きな話題ではない。私にはもっと、真っ当に、彼らへ閉口することなく、自己自身を成長させられる道が与えられているはずである。
何を書いても、彼らには断罪に断罪としての効果が見られない。むしろもっと、こういう形で断罪されることで、構ってもらいたいのである。これがいかに不条理であることか。どれだけ人として誤った態度であることか。