山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

普通の文章を普通に理解することができなくなっている。思考鈍化の甚だしさが問題である

普通の文章が理解できなくなっている。認識力の圧倒的低下の問題がある。その要因として中の人たちの思考阻害がある。だが中の人たちは、「ともにわかろう」としないのだろうか。思考力低下を喜ぶくらいなら、私とともに私が理解しようとしていることを理解しようという心は起こらないのだろうか。理解しない世界のうちに、すなわち理解しようとしてもできない世界のうちに、彼らは安息の境地を見出すのだろうか。当然そんなことはないはずである。できるなら、理解すべきことは理解したいものであろう。

こういうことを書いても、美しい、とか、ね、のような反応しか彼らはできない。しかしともに理解すべきことを理解しようという心は、起こらないものだろうか。ともに理解する方が、お互いよいことのはずである。理解を深めること、理解を共有することは、尊ばれるべきではないか。私に理解力がないからと言って、彼らはサポートしてくるのではなく、むしろ真逆に、そのこと自体を喜ぶのである。それは理にかなってもいないあり方ではないか。私が理解しようと苦しんでいるときに、手を差し伸べることはしてくれないのだろうか。それは彼らも、私が理解しようとしていることを理解できないから、そのあり方そのものに逃げ込むということなのだろうか。そこに逃げ込むこと、すなわち私の思考を妨害するということなのだろう。彼らも、私の目の前に現れた問題について理解していないのである。だが、そこに逃げ込むべきではない。理解のための指針を私に対して与えるべきである。なぜそんな簡単なことができないのだろうか。私の理解力のなさを、推すような心の貧弱なあり方しか持てないのだろうか。それ自体彼らにとっても無意味ではないのか。彼らは、私の無理解に代わるより高次の理解を持っているのだろうか。決してそんなことはないようである。低次から、私を見下そうとしてくる。それって、根本的におかしいことではないのか。彼らにもわかっていないのに、わかっていない私、少しは彼らよりもマシな理解力を持つ私を、馬鹿にしようとするのである。これは意味不明なあり方ではないのか。理解に苦しむと、「やっぱりね(お前の理解の仕方は結局はそんなものに過ぎない)」となるのだが、彼らはそれに代わる高次の理解など持ち合わせないのであり、私に対してそんな評価をする能力・権限など持たないはずである。繰り返し問いたいが、私が理解できない代わりに、彼らは何を知るのだろうか。より高次の理解を私に示してもらいたいものである。

単純な論理が、理解できなくなり、それでどんなものであれ文章を読むことが非常に困難となっている、それだけでなく、中の人の妙なマウントがさらにこの困難さに拍車をかけているという話である。彼らは、この私が考えないことを猛烈に推してくるのであるが、その先にあるのはより高次の理解ではなく、単なる退化と彼らの自己都合である。彼らの自己都合をこの私に無理矢理溶かし込もうとするために、思考力がより一層奪われる、ただそのことだけについて嘆くことは延々とできる、という有様である。このような類のことについて書いても、いつも通り、非常にいい、などの評価を得る。私がこの類の問題のなかにはまり続ける限り、彼らは私を思考の檻に入れるというミッションを達成し続けることができるのであり、それは彼らにとって都合がいいのである。私からすると、これは彼らへの断罪行為であり、こういうことは二度としないでもらわないといけない。

私は、単純な、普通の思考力を得たい。それについて書いてみること、日常の思考生活のあり方を反省してみること、それには意味があるのだろうか。