山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

意味上は内、実体上は外。

意味上は内、実体上は外。内在的超越者。実体を実体の次元で分けようとする、つまりその内側を見ようとすることが、意味上の内の始まりと言ってよいのではないか。実体は実体自身によって実体を生み出し、実体上の次元から実体上の次元へと至るのであるが、そこには内在的なもの意味的なものが介在していなければならない。同一的に、内在的なものは、そこに介在している。内在的なものは、実体と同一であり、他者であるため、それは実体的にはそれと別個のものとして見られることができない。だからこそ、概念というものが、言わば消えた実体として、実体と次の実体を媒介するのだと言うことができないか。内在的超越者というのは、意味上は内にあるものと言ったが、それは最初には実体そのものの次元における分割から発する、それがそのまま概念上の分割そして高次の統合へと至るところに、意味上の内在すなわち実体上の外在というものが考えられるのである。物を分けるとは、その外側を統合するということであると言うことができよう。物を概念的に分けるとき、これを普通に分析と言う。分析とは、その実体と他の実体との関係性の究明であると言うことができる。そうすると、意味上に内在した実体上の外部のものと、その実体とは、これによって統合されることが可能となる。この統合は、ある実体の内在の内にある。ある実体が単なるある実体でなく、ある奥行きを持ったものとして認識されるとき、それはすでに外部の実体との体系的関係を含意している。ある実体と他の実体とのそれぞれの内在者は、そういう意味において同一である。それは複数のものでありながら、単一のものであると言うことができる。この統合的プロセスを媒介する、担うものが、行為的直観と言われるものであると私は考える。それは一と多とのこのような同一を指している。このような矛盾的同一は、行為というプロセスの内においてしか可能でない。

物を概念的に分けることの始めを、実際に実体上においてこれを分けることであると述べたが、この点に関する説明が不十分である。その行為とは、単にある物が「物体的な奥行きを持つ」のだという認識のような、なんでもない日常的認識であってもよいのである。それはすでに、その実体を分けることになり、その実体の意味上の内在者の展開の端緒となる。その実体が、ある物体的角度から眺められることもできれば、別の角度から眺められることができる、というような認識であってもよい。とにかく、そうした認識が、概念的分析の起点となるのである。その質料が、ある概念的枠に置かれることもできれば、別の概念的枠に置かれて見られることができるというとき、そのものは、ある意味で、それら二つの別の場所を自己のうちに持った更に大きな場所だと捉えることもできる。ただしそれは、実体上ではなく、概念上、意味上においてそうであるということであり、意味上、概念上の内的奥行きは、そのものが持つ広さをすなわち超越性を示している。こうした超越性は行為的直観に媒介されることで、実体上のものとなる。このプロセス抜きに、ただそれだけを取り出して、このものを超越的なものだと言うことはできない。概念的にそう定められたとしても、その次なる行為、またその更に先の行為、という含蓄がなければ、すなわち理念的でなければ、それは世界を包むものとなることができない。理念とは、概念が、行為的である、ということである。単に概念的なものは理念となることはできず、理念としての概念が概念としての静止性を持つのは、かえって無限の行為の過程によるのだと言うことができる。それは無限の動きなのである。理念としての概念とはそうしたものであるが、単なる静止的な概念とはどのようなものか。それもまた一種の物体であり、つまり実体的なものと言うことができる。すなわちそれは真の意味ではなく、人間の環世界における精神的領域におけるある個物として捉えることができる。全ての概念は、常に多角的に捉えられることができる。その含蓄がそこにある限り、真の概念すなわち理念もそこに存在する。これは実体が実体としてある種の静止性を持つのはなぜかという問題につながる。その静止性とは結局は、究極の理念がそこにおいて内在するからだと言うことができないだろうか。どんなものであれ、一つのものであると言われることができるとき、私という純粋行為は、この唯一の宇宙的実体を見るのである。全ての個別のものは、それぞれに神であると言うことができるのであり、しかも真の神は、行為的プロセスにおいてのみ触れ得るものなのである。行為的プロセスにおいてこそ、一つのものは、単なる多数の内の一つでなく、真なる宇宙的同一であることができるのである。普通に概念的に、全てのものは神なり、と言うのでは、実際にはただ単に観念的な言明に過ぎないが、実はその実性は、日常的行為性のうちにしか存在できない。しかし実際にこういうことが言われるのは、多く宗教など特別な場においてであるが、実際にはそのような観念的世界にだけは、この宇宙的同一を見ることはできないのである。日常生活というのは、そのもとから言って、宗教よりも宗教的なものでなければならない。