山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

精神は社会に溶けて存在するのだとしても、溶けられる元である社会と溶けるものである私の精神とはやはり別ものであることになるのではなかろうか。

浸透する、といったような言い回しがそうした理解を招くのだろうが、このような事態が本当のところは具体的にどのような有様なのかをより精密に考える必要がある。そもそも社会とはいかに成り立つのか、それ自身の構造体を他から自立して持つのか、といった点を考えなければならない。社会の物理面というものを考えると、すぐに連想されるのはビル群や日常生活における様々な道具、農村にある畑、道路、そしてそこにおいて様々な活動する人間の肉体、といったものである。社会そのものはどこにあるのかを考えると、これらの連関を社会として意味づける働きの内にあるということになろう。この意味づけの働きとは、我々の単なる「念」の内にあるのだろうか。個々人の「念」が、同じある社会的構造を持ったイメージを自己のうちに持つということなのだろうか。個々人の「念」の世界は分離されたものであるのだろうか。そうであるのならば、社会とは単なる概念であり、「念」のうちには「社会そのものの生命」は存在せず働いていないことになる。実際社会におけるコミュニケーションとは、外的に発話される言語を通して行われるものであるから、そのようにも理解できる。しかし実際我々は、何を相手に内語するのであろうか。それは想像上の相手と考えられるだろうが、実際にそのようなことが可能である時点で、私はすでに個人的でしかない私という枠を越え出て存在している。すなわち内語的であればあるほど、かえって私はすでに人間関係的なもののうちに取り込まれている。これは内語に限ったことではない。どのような妄想も何らかの社会的意義を持っているはずである。問題はこの個人内念活動と、実際社会における活動との接続である。この二つは別のものとして区切られていなければならないことも事実である。しかしこれらがそもそも接続できるということ自体は何によるのであろうか。内的な活動は実際の他者との対話でもあるのでなければ、はじめから社会というものを持つことは我々にはできない。なぜなら個人の念の内においても外においても我々は常に私個人の空間にしかいないからである。この私個人の空間において始めから社会的であること自体が矛盾なのであるが、実際にそうでなければならないのである。そうでなければ我々は唯心論に至ることになる。

では何故に内から隔たり、外的に社会生活というものが構成され得るのだろうか。内的生活がもともと社会的なのならば、もとから外側に社会生活を持つ必要はないはずである。ここで外的という言葉の意味をもう少し明確にしておく必要がある。具体的には身体を軸とし、他の身体と関係を持つというようなことが、社会生活の最も基本となるあり方であると思われる。身体的我と精神的我とがあると考えられるが、精神的我とは実際には身体的我を深めたところにある一種の身体的我であるので、社会というものも身体的に考えることができる。常識においては、身体的我に対して精神的我が分かれたものであるからこそ、内語的我は外的に社会生活を持つことができるのである。精神的我は社会的なものを表現するための核にあたるものである。この核が核として保証されているからこそ、生物的身体的な身体的機能から隔たり、社会的に自己を進出させこれを表現してゆくことが可能になる。生物的身体的には外的になるものが精神的我であり、精神的我は生物的身体を表現の媒体として使用する(生物的身体という語は西田の使った語であるが、私の理解には誤解があるかもしれない)。社会の物理面というものは、生物的身体に対応するように作られてあると考えられる(もしくは日常習慣的身体に対応するか)。その際精神的身体は思考という行為に没入する。しかしただ思考するのみでは表現は表現とはならない。生物的身体とその環世界に自己を投じてゆくことにおいてはじめて自己を表現することが可能なのである。精神的我が生物的身体の環世界において表現されるための客観的媒体となるのが言語であると考えられる(その主観面に生物的身体があると考えられる)。言語に基づいて様々な構想がなされ、物が作られてゆく。こうした結果は、生物的身体が享受するものとなり、生物的我はそのまま精神的な存在に高められてゆくのである。生物的身体が、精神的な物の疎外を基調として成り立っているものであるが故に、社会とは、精神が浸透しているものでありながらも、内からは隔たった外的構造を物理的にも精神的にも持つのであり、精神はこの内なる自己と社会との両極のもたらす懊悩を自己のうちに抱えることになる。社会は自己の内の外なるものの象徴であり、精神は自己の内の内なるものの象徴であるが、かえって精神とは外の外に存在するとも言うことができる。そうであって始めて精神は社会を作る存在であることができるのである。作ることの根底には、環境への理解がなければならない。自己の内の外なるものとは、単に個人的な空間にいるときにおいても常に働き出しているのだが、生物的身体的な環世界に生きる視点から見れば、最終的にこの関係は言語あるいはそれに準じた形でのコミュニケーションにおいて表現されなければならない。

内の精神と外の社会が、同一実体でありながらも、しかも分かれたものとして認識されること自体が、ここにある疎外的な事態を物語っているのである。これは精神が社会から距離を取って、外の外から自己を核的に表現してゆくことが可能であるための仕組みであると考えられる(それゆえに個人内の想像空間の働きが豊かであり、行為の前の熟慮というものが可能になる。思考と行為との間に緩衝がある)。真の内的社会とは、思念のテレパシー的やりとりがそのまま社会的生活の意味を持ったものでなければならない。我々の社会というものがそうなっていないのは、生物的身体的世界を表現のためのベース・立脚地としているからであり、繰り返し言うと、精神の疎外を前提した世界に自己を投じてゆかねばならないからである。




以下メモ。

予期されるものは存在しているのなら、目の前の物の存在はどこまでも予期的なものだということになる。物は最後まで掴まれ得ない。希望を実体として考えることができる。実体とは生命から生命へということであると言うことができるのである。西田が「作ること」を独自の観点から注目しているが、こうしたことを考えるには、まさに作るという行為について深く考えてゆく必要があるであろう。

以上を踏まえると、単なる物というものは実はなく、意思の表現の仕方が異なるだけであるということがまたわかる(今簡単に典拠を示すことができないが、ミナミAアシュタールが、これに近いことを言っていたと思う。彼らの思想については次のブログを参照のこと。「ミナミのライト らいと ライフ〜light, right, life〜」
https://ameblo.jp/kuni-isle/
12/14アクセス。)

心の内がすでに社会である。