山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

幻聴と付き合いながら、次の時代へ向かうために

何と言う陳腐に囲まれていることだろう。人の足を引っ張ることしか考えないレゲエの民、ポップスの民*1、その低劣さは言葉で言い表せない。

私は新しい社会へと向かって行きたい。そのために必要な知識を得、そして考えることにより新たな知見を得たい。彼らは私のこの希望に満ち溢れた思考活動を、唐突に足を引っ掛けるように、阻害する。頭に出かかった、希望を持った思考の筋が、足を引っ掛けるように、遮断される。

資本主義の次の社会というのはどのようなものであろうか。私はそこに希望を見出したい。そしてそこに至るために必要な知識を体系的に得、思考し、これを咀嚼したい。彼らはその湧き出る陳腐さによって、この私へ与えられた恩寵を、その出かけたところから、消し去ってしまう。どういう心づもりなのだろうか。彼らには、そういう社会は都合が悪いのであろうか。この霊たちには、未来というものが見えないのだろうか。

情報に接し、少し考える、わからなくなる、「ね」の声がやってくる。彼らは、私がこういった新しいことがらを理解することができないことを歓迎するのである。しかし新たな社会は、そんな低劣な彼らにとっても福音であるはずなのである。どういう心づもりで、彼らは、私の足を引っ張るのだろうか。新しい社会に行くのにも、私に先に行かれては困る、私をあくまでも下げておいて、自分たちが先に行こうとするのであろうか。無論そんなことは不可能である。新しい社会は共有の思考によって、要するに手を取り合うことによって可能になるものだからである。私は彼らを、指導によって、導きたいと思う。その低劣さは、根底から非難されてしかるべきである。だが、それによって人間としての尊厳が侵されるべきではない。彼らは導かれるべきである。天は私にそのような道を与えてくれるだろうか。私は素直に、次の社会へと行くための思考の体系を自分のものとすることができるだろうか。


新しい社会の経済のあり方について予言した次の動画がある。
https://youtu.be/QHscdMQP6Xc?si=Fixf2P9mWLz0FG3u
私はこれを視聴して思ったことをここで書いた。


彼らは、なぜ、新しい福音を、誰にとってもの福音を、「理解」しようとしないのだろうか。また、私のそれへの理解を遮断しようとするのだろうか。私のこの努力を共有することを抜かして、自分たちだけが先に行くことはできないはずである。できたものは、できないものを世話する必要がある。彼らは、私の先にいるのだろうか。もしそうだとしたら、そのような阻害的な態度は、当然とることはできない。要するに、言うまでもなく、彼らは私の後ろにいる。幼稚な理解段階にある。私が彼らを導いて行かねばならないのである。こういう風に、阻害が、問題として意識されること自体が、私の新社会への理解そのものを妨げることとなってしまっており、そしてさらにこういう形で私に構ってくれたことに対して、それが喜びとして彼らには感じられるらしい。閉口のほかはない。私のほかに私と同じ体験をしているという人はいるのだろうか。私はこの点に関して絶望的に孤独である。

何を書いても、私は彼らに「構って」やったことになるので、彼らはその幼稚な欲を満たし、すなわち大人としては不毛な心理地帯にはまり込むことになる。彼らは、なぜ大人になろうとしないのだろうか。そうなろうとするのが、良識あるものの、当然の態度ではないか。なぜ、こうして非難することに対して、真摯に向き合おうとせずに、「美しい」と彼らは言うことができるのか。

こう書いていて、私の思考は遮断され、次に言いたかったことが書けなくなってしまった。私は彼らの幼稚さを、幼稚さのまま、放っておきたくはない。それは私の成長の邪魔だからである。せめてそのことについて私のために、私を護るために、書き記しておかねばならない。彼らはどうして、私の言うことを真摯に受け止めないのだろうか。それは、何々だ、と言い出そうとするところで、私は今考えていたことを彼らに遮断され、言いたかったことが書けなくなってしまった。では、彼らはなぜそうするのか。要するに、その幼稚な場にとどまっていたいからである。まだ幼児の遊びが恋しいのである。これほど閉口すべき事態はあろうか。これは秘密でも何でもない。彼らの即物的な幼稚さでしかないのである。だから私が、そこに大きな秘密でも宿るように、大げさに、それを書いてゆく必要はない。

書こうとしても、肝心のところで、そこにあるべき字句が、遮断によってわからなくなる。それは秘密であるのでもなんでもない。この今もまさにその状態である。しかしそれは重大な秘密でもなんでもない。彼らの即物的な幼稚さが、私の真摯な指摘を受け止めることを回避し続けているのであり、既成事実として、統合失調症的に、私の思考活動を、その幼稚さによって、遮断しているところから来るのである。陳腐にして幼稚な暴力は、このように、思考の尊厳を、いとも容易く封じることができる。それは思考に優位に立つためではない、私に先に行かれては困るからである。幼稚さは、それほどの力を持っている。

そう考えると、世界を支配するのは、成熟した思考ではなく、幼稚な阻害活動なのである。これが次の社会へゆくための大きな枷となる。彼らの優位性は、ただいじめっ子の幼稚な乱暴に基づいている。それが大人の世界を支配し、それをひたすらに邪魔し続けるのであり、手がつけられないのである。こんな馬鹿馬鹿しいことがあってたまるものだろうか。彼らは、自分の方が上だと言いたげに、私に対して「ね」等の反応つまり思考阻害をなしてくるが、それは実際手のつけられない子供の所業なのである。幼稚は世界を支配できるのである。大人は世界を主導することはできない。それは私のアートマンが、ここにおいて証明している。まさにこの事態は頭痛の種である。

ここまで書いても、私が彼らに困ること、構ってもらえること、そして理解に悩み苦しむことに対して「美しい」と言うこと、つまり馬鹿にすることができるのだろうか。私は彼らに関して真実を書いた。私は彼らを導かねばならない。彼らは馬鹿にするつもりなのだろうが、彼らの低劣さは私には手に取るようにわかる。彼らが物事がわからないのは、私には可愛く思えることであるが、馬鹿にしたりはしない。馬鹿にしようとするのは結局は劣等感に基づいている。彼らの劣等感が彼らに「美しい」と言わせている。私がこう書くことで、私は何か馬鹿なことをしている、だから「美しい」という、これが彼らの反応の仕方なのであるが、真実は彼らの劣等感であり、そこから目を背けようとする態度なのである。

ここまで書いてわからないだろうか。思考は共有されるべきである。特に次の時代へと向かう生産的・建設的な思考は、よくよく大切に扱われ、共有されるべきである。彼らは、もっぱら、私の混乱状態に対して「美しい」と言っているのであるが、むしろ私の思考の公共性に対して、その広がりに対して美しいと「感じる」心を養わなければならない。私はただひたすらに、新しい方向を向いてそこに突き進んでいきたい。私の統合失調症的これらの症状は、この態度にとって致命的である。しかもそれは幼稚な暴力によって成り立っている。優先順位は、建設的な思考の方である。しかし真の価値はただちにこの直接の思考の力とはなりにくく、その克服が必須となってくる。彼らの霊のために言っておけば、幼稚さは素直に認めた方がよい。幼稚さが支配力を持つそのあり方そのものを、こう、書きあぐねて悩んでいるときに「美しい」と言ったりするような心根を克服して、辞めねばならない。こういう文章の混乱に一々「美しい」などと言ってしまう、その幼稚さを認め、すみやかに次の方向に向かっていかねばならない。私のこの筆記活動は、その幼稚欲の満たされる場などという狭い場であってはいけない。そんなことよりも大事なことが目の前にあるではないか。次の社会に向かおうとは思わないのか。同じ幻聴ならば、私の思考を支配するにしても、もっと建設的なものでなければならない。根底は常に神の如き叡智によって担われていなければならない。私の思考の現実化面では、彼らのような幼稚な力が未だはびこっている。

屁理屈はやめよう。これはある古代ギリシャ人たちに対してである。陳腐な幼稚さはやめよう。これはあるレゲエ民とポップス民に対してである。しかし私が言いたい真のことは、そんなことではない。もっとその先にある、新しい社会のあり方、心の持ちようについてである。彼らは、到底、そんなことが話し合えるようなものでは現状ない。同じ幻聴なら、私の思考を支配するなら、少なくとも、それは建設的なものでなければならない。百歩譲って私の思考活動を支配することが可能ならば、そのような態度は当然のものでなければならない。根底というものは、常に叡智によって司られていなければならない。

*1:私に取り憑いている霊たちのことで、無論レゲエやポップスをやる人がみな普通そうである、と言っているのではない。おそらくごく一部の存在である。私の中でそういう「登録名」として登録されている存在たちである。