山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

自分が毛嫌いされていることを認めることができない人たち

実際は毛嫌いされるのが嫌だから彼らはそんなことをするのだろう。毛嫌いされていることが彼らには認められないのである。毛嫌いされているという事実を、なきものにするために、私を非難する。

何を言いたいか、考えていたかが、すぐにわからなくなってしまった。

書いていると、コピュっとしたエネルギーが作用してきて、まるで思考ができないのである。私はそんな彼らを毛嫌いしている。それが認められず、私に対して優位に立とうとして様々な妨害行為を行っているのだと思われる。こう書いていても、エネルギーが入ってきて本当のいいたいことがすぐに頭の中からかき消されてしまう。そのような形で優位に立とうとするのが彼らの目的であり、優位に立てば、毛嫌いされているという劣等的事実を、その時だけは無視することができるのである。

彼らは、彼らが私へ価値を判断する側だと思いたい。しかし価値判断する主体は私であり、私は私において、彼らに優位な立場に本来立っている。なぜなら私の空間は私のものであり、私は私という尊厳ある存在をここに持ち合わせているからである。私において私は彼らに当然優位である。彼らはそれを冒し、私の毛嫌いを、その念すらわからなくさせるように干渉してくる。私の私において彼らは干渉的に、優位に立ちたく、すなわち彼らは私を隷属化させたいのである。


彼らの言動に何か引っかかりを覚えるのは、私に毛嫌いされているという事実を認めたくない、彼らは私に優位であるという立場であると思い込みたい、というところから来る。私は彼らを、対等の存在として、尊厳を尊重した上で、毛嫌いしている。だが筆記にも干渉作用してきて、私の毛嫌いの念はかき消されようとしている。そこに彼らのどうしようもない悪質さがある。そこまでして、彼らは私に構ってもらいたいのである。本質は、彼らがただ人間として劣っているということであり、そのことを隠すために、何かと私に作用し指示してこようとするのである。上の立場であることを装うのである。

彼らの行いに尊敬すべき何かは、今まで一つとしてあっただろうか。

これを書いていて、美しすぎる、と中の人に言われている。それは、私がこう書き出すことによって、何か間違ったことを言っているのだ、という主張であり、間違ったことを言って馬鹿を曝け出しているのだ、という意味での評価の言葉なのであるが、仮にそれが正しかったところで、なぜそれは美しいのか。私の劣等性があるとして、それが美しいということなのだろうか。そんな神経はとても人のものとしてはあり得ないことは、言うまでもなくわかることであろう。相手が劣っていることが美しいのである。美しいとは、しかし言うまでもなく、相手が美しいことにおいて美しいのである。そうでしかない。実際私から毛嫌いされているという事実、私に真相を見抜かれているという事実から目を背けるために、そのような言動となって現れるのであろう。

書いていると、野次馬のように、「これでいいよ」というようなメッセージを送ってくる存在もある。彼らは私をそのように評価する立場にないはずである。私が何か間違ったことを言っていて滑稽な醜い自己を曝け出していてザマアな状況であるとみなしたい意思がそこにあるのであるが、なぜその状況が彼らにとって「望ましい」のであるか。明らかにまともな神経ではなく、低劣な心の持ち主であることはすぐにわかる。彼らはただ私に勝ちたいだけなのである。私に対して応援するようなことを表面上言っていながら、内実ただ毛嫌いを直視せず、優位な立場に立ちたいだけなのである。それを直視しないことによって彼らは自己の小さいプライドを保っている。だから憐れむべきは彼らの神経である。私は本当に彼らを憐れみたい。


私がこうぐちぐち書き出すと、私が何か間違っていることを言っている、自己中心的なことを言っているような雰囲気を彼らは醸し出そうとしてくるのであるが、事実は彼らの低劣さである。何をどう書いても、そのことを直視する反応は、彼らからは得られない。ここまで言われているのにである。

彼らは本当は軽蔑されている自分の立場を誤魔化す。私はそんな者たちに毎日囲まれ、彼らの劣等感の投影を受けている。彼らは劣等感を私に投影して、私を劣位のものとみなそうとする。ところが実際に主体的に彼らを毛嫌いしている主体的存在はこの私である。そのこと、つまり上から見られるというあり方が、彼らの弱い醜い心には耐えられないのである。何とも憐れむべきである。