ある文章を何度読んでも理解できない。すでに理解できているのに、全く理解できない。
私はこの事態に対していかなる態度を取るべきか。
自由がない。
しかし気にしないのがよいのであろう。たとえこの筆記に沿って彼らのゲイ声が入ってくる、思考内語があるのだとしても、それを気にしないのがよいのであろう。無論必要な制裁は行うにしても。私は異性愛者である。
私はこれを読み直す。そのときに、この文章を理解できるのであろうか。それを思うと、書くことも意味がないように思えてくる。書くことは新たなトラブルの原因となる。せっかくトラブルから自らを救おうとして書くのに、それが新たなトラブルの大いなる原因となってしまうのである。私に必要なのは、疑いようもない、直接の、感情の刻印なのであり、事実の無機的な羅列の記憶ではない。もうすでに書いていて自分でその文意がわからなくなっている。書くことは、私にとっては感情の刻印であり、それを読み返すことは、一々の文意を無機的に情報としてインプットすることではない。読み返しということも、この一つの単なるそして直接的な感情の再興でなければならない。シンプルな感情は、理屈の過程抜きに直ちに理解される。文章の隙間からはみ出すそれを、私は未来の私に対して保っておきたい。全てはそのための筆記である。