山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

彼らの称賛は悪意である

中の人の、いいね、とか、美しい、と称賛する声は、基本的に私への悪意である。それが統合失調症なのだと思う。思考奪取、思考化声などが起こっている。不自然な思考乱入とでも言うべきことも起こっている。それで彼らの妨害欲求が満たされるときに、私は彼らによれば美しくなったりする。こう書き出していて、うまく考えがまとまらなくなったときなどに、彼らの美しいといった評をもらう。普通に考えて、それはいじめっ子の神経である。弱いものいじめをして喜んでいる心理そのものである。お前はそこ(無能力状態)にいろ、という感じである。彼らから見て私が滑稽に失敗しているかのように見える様が、喜ばしいことなのであり、私が私自身の意思から自分の意思を満たすことの喜びは、彼らにとって全く歓迎されるべきでない事柄でしかない。

こういう形で、邪魔して、そのことに私が悩み注意を向ける、つまり私に構ってもらえることが喜ばしいということもあろう。実際それだけの精神性をしか持ち合わせぬ存在であろうと思う。

だから彼らの喜ぶ点は二つある。一つは私の無能力を喜ぶこと、もう一つは私に構ってくれるのを喜ぶこと。私の無能力を、思考奪取や思考化声などによって遂行することによって得られた無能力状態、そこから私が混乱して連動して彼らに注意を向け意識で闘う状態、この流れだと捉えてよいであろう。私がもし無能力でなければ、彼らは私に構ってもらえない。能力があるなら、わざわざ彼らに意識を向ける必要はない。私からすれば、彼らは、構ってもらうために、いじめレベルのちょっかいを出して、そしてそれが意図通りに成功している例が多いということになる。実際私は、この無能力状態とならないように、守られているのではないのだろうか。そうした護る力というものは、霊的に存在するはずではないかとも思う。しかし現実はこの通り、ほぼ彼らの思うがままの廃人一歩手前のこの私である。私の意思に反するという私の現実が守護霊から私への恵であるのか。そうでなく、私は私として自由に私を作ることができ、現実を私の思う通りにできるはずである。今「導かれて」いるのは、それとは真逆の方向であり、そうなると、私の魂によほどのカルマがあるということが、こうなることの原因であるとして合理化するしかないように思われる。

今日の雑記はここまで。