山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

意識・無意識についての(私にとっての)新たな概念

以下の過去記事https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2023/04/02/182009を読み返して、無意識についてさらに思いついたことを書いていきたい。




意識自体というのがあるのではなく、意識は常に動き回るからこそ、その時々に常にその意識なるものに「沿う」ように出現するものを無意識と呼ぶのであろう。そして意識というのは大体人間の精神においてある一定の範囲内で動くことが多いということは言えるから、無意識もまたある一定の範囲を占める構造的なものとして理解される。しかし実相は、浅くも深くも動き回る意識の、常なる「裏側」として無意識があると考えることができるのであり、その認識は常に他者を必要とすると言える。*1

こういう意識が動き回るための「浅さ」とか「深さ」とかを定義するためには、やはりある一定の物体性・構造性を持った「精神」なる実体的なものを想定しなければならず、また心理学の概念がこうした構造の理解に基盤を持たねばならないであろうことは確かである。精神の実体性は「意志」にその根拠を持つと考えられる。意志とはいかなるものか。それは実体性を超えたもの、したがって実体がそこから生まれてくる何かだと考えることができる。繰り返し言うが、精神の統一性はここに根拠を持つ。意志においては、普通の実体性が高度に了解されている。それに実体性がないと言うならば、そうであるのは、実体性を高次から指示し構成する能力を持つためである。それは究極には、ただ概念的なものである。したがって精神というものも、実体性が高度に理解された上で、究極にはただ概念的なものであることになる。意識というものは、時により、その高次から構成された精神空間において浅くも深くも動き回る。本当のところは、意識には行けないところはない。だがしかしそこには常に無意識が「沿って」現れるのである。無意識という構造があるのでは、究極的にはない。だから、精神と思われている高次の実体性を持った一番深いところ、そこに意識は至ることができ、その可能性・現実性があるからこそ、無意識の存在も、このように意識によって了解されることができるのである。

そうすると、意識が無意識的に己に課しているこの「不自由さ」という限定は一体何なのだろうか、という問題が生まれる。それは意志の自己限定という概念から、あるいはスピリチュアル的に言えば「プロセスを味わいたい」という自己規定から、理解することができよう。





まだまだ問題は出てくるように思うが、今日はこれで終わろうと思う。あとの問題は他日の熟考に任せよう。

以下メモ。

・AIが自我を持つには「意志」が内的に存在することが必要になる。意志とは実体性を支配し、実体がそこから生まれてくる何かである。ある限定された構造性は、いわば意志の影もしくはその縁うんであり、真なる意志は実体のもとでありながらこれを超えたものであるということが理解されねばならない。

*1:と言ったことは、後に書く記述と矛盾する。私はそこでは、無意識の認識は、意識の自己反省の内にあると理解した。なぜ「その認識は常に他者を必要とする」と書いたかと言えば、無意識は常に「裏」に回るものだからである。これを説明するには、構造的に、精神によって担保されている無意識(心理学の対象となると考えられる)と、常にここにある真の無意識自体という概念の違いへの理解が必要となってくる。また、意識と無意識を「今まさに」総合している視点がここにある。この視点は他者的なものである。他者が他者であって己であるような視点である。他者を内化する視点とも言える。これによって、意識の自己反省と、他者の視点といった概念の矛盾は解消されるであろう。