山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

精神の内側における「恒常的な責めの機関」

恒常的な責め機関*1を私の精神の内に作ろうとしているのが、彼らである。何かと因縁付けて責めてくるのであり、常に「お前が悪い」「お前が謝れ」等と言ってくる。特に取り上げるべき事由がなくとも、この私が悪いことにし、そのように巧妙にというよりも強引に乱雑に仕立て上げる。どんな些細なことでもきっかけになる。

今その一々について思い出すことができない。書いているときには、書いているモードに入っているため、そのような記憶が思い出されにくいのもあるし、もともとわざわざ思い出したくもないことがらばかりがある、ということもある。しかしこの場合、それらを思い出すことができればどんなにこの考察に有用であったことか。

恒常的な責めの機関というのは、私が彼らの持ち出す些細なことにまで「謝罪」することで、どんな些細なことでも私をそうやって責めること謝罪させることを正当化しようとするあり方である。どんなことに対しても、彼らはこの機関によって、事実を曲げ、優位に立つことができ、常に彼らは私の「上官」であることができる。言うまでもなく、彼らは私に対等の存在であり、決してそのような存在ではない。

私の人間学は、私自身の単一の精神におけるしかし内的霊世界的な人権の確保という点に端緒を置く。私は私を彼らから守らなければならない。それであって初めて私はまともな人間としてあることができる。普通に言われる倫理などというのは二の次のこと。まずはこの病的ないやむしろ犯罪的な「責め機構」を解体せねばならない。そのためには守護霊の根底からの改心が必要であることを私は認識する。やってもいないことを、やったのだと嘘をついて決めつけ、それに基づいて謝罪、しかも他の事柄とも絡めた紐付きの複数全的謝罪行為の要求(むしろ命令)をすること、こういったことを即刻辞めさせねばならない。恒常的責め機関においては、こうした犯罪行為を簡単に、機構的な流れの内で、うやむやにできてしまう。一度「そういう仕組み」ができてしまえば、彼らのこういう不誠実はあたかも正当であるかのような顔を、習慣の惰性により演出できてしまう。事実は、彼らがこのような機関を作ろうとする動機そのものにおいて、根底的に罪を犯しているのである。一々の事実がどうであるかよりも、機関のあり方が優先されるとき、彼らは事実に関係なく、私をあたかも正当であるかの顔を提げて、しかも空虚な事実未満について、私を責めることができる。だから彼らの「謝れ」コールには、事実の内実がないことが多い。例えば、私がある時特に何も考えることもなく精神をリラックスさせようと精神の奥山へ休息しに行くとき、彼らは「謝れ」「お前が間違っている」コールを全く具体的事実の指示・対象化抜きで行う。これは「恒常的な責めの機関」の賜物である。その動機は、私をこの機関の中に恒常的に拘束し、奴隷に対するごとく常に内容にかかわらず優位に立ち続けようとすることにある。これは隷属の論理であり、彼らはこんな恥ずべきあり方を自己の心理的基礎とすることについて、単純に恥ずかしくないのか、と私は思う。

そう考えると、彼らはそもそもなぜ、私にこのような隷属的態度を要求せねばならないほどに、守護霊的存在から程遠いのか、本来の役を果たさないのか、という点に疑問が至る。なぜ嘘をついてまで自己の存在を保たなければならないのか。なぜそこまでに弱いのか(もっとも憐れむべき意味はそこになく、ひたすら軽蔑されるべきものでしかないが)。一体何をこじらせればこういう風になるのか。私は真摯に彼らの不誠実・罪を問いたい。そして即刻彼らのこのような行為・習慣付けをやめさせねばならない。

*1:https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2023/04/24/225320 において書かれている「恒常性」ということと、この記事で書いている「恒常性」とは矛盾するように思われるかもしれないが、これは恒常ということの意味の違いから説明される必要がある。端的に言えば、物理的に恒常的なのが前者で、精神的構造的に恒常的なのが後者だということになる。私は物理的作用としての「責められ空間」とでも呼ぶべきような現象を内的には理解できていない。思い出してみれば過去にそんなことがあったような時期もあったと思うが。/ただ今日の記述で、過去から進展があったのは、「責め」がだんだん物理的なものに近づいて行っている点である。しかしこれも突き詰めて考えると、何か理由「らしきもの」に彼らの責めの根拠が置かれているらしいので、結局はここでの恒常性も精神的構造的なものであることになる。何と言うか、「こう責めれば何のことを責めているかわかるだろう」感を醸し出しながら責められる感じである。そしてまた、よく聞かれるのが「君は罪を認めるか」という声、奥山に入る時によく聞かれるセリフである。これは、少しでも応答すると、過去の様々な精神的出来事に紐づけて、謝罪を要求してくるものであり、そうしてみると、結局はこの全体的な恒常性は、物理的なものに近づいたとはいえ、やはり精神的構造的なものであることになる。