山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

普通の文章が頭に入らなくなったこと。それによる資格の剥奪

文章が嫌いになった人間にとって、文章的自己表現世界はもう開かれていない、それは閉じられている。その世界は私の前にはもう存在しない。どんなに偉大なものが、たとえまぐれによって書けたとしても、他人の普通の文章を読むのが苦痛であってしまっているような私にとっては、このような偉大な表現は果たして表現とすら言えるかどうか、疑わしい。しかし文章というごく一般的な世界的な世界を抜きにして、私のごく普通の人間的生存というあり方は考えられるのかと言えば、それもまたそうではないと言いたくなる。私は人間としての私をごく自然に考えようとするとき、ごく自然に、あんな文章もこんな文章も社交会話程度に普通に読みこなせる自分というものを想像する。しかし実際の私の能力はそんな基本的条件すら満たさないのだということを自覚してしまっている。そんな私にとっては、文章的世界は、何と言うべきか、私の人間としての私自身への信頼を脅かす何かであってしまっている。私はそれを当然のようにクリアしなければならないし、しかも実際にそれができないのである。私は自然な文章的社会に加わる資格を持たないが、しかしそこにおいて自己を表現しようと欲していることは確かである。しかし私はただ一つ、文章的世界に私を存在させる資格を与えることのできるある内的感触というものを有していることもまた自覚している。その感触によれば、私は未だ文章的世界に入り込むことのできる素質的な余地を残していることになる。しかし「面倒だから」普通の文章を読めていないのだ、ということにもなろう。この内的感触によって、私はこんな駄文を書き連ねることができているのであり、私の不能力は、この内的感情移入、一応持ち合わせた素質への信頼によって補われている。まどろっこしく書いたが、要するにちゃんと文章を文章として読むように訓練すればいいのではないか。当たり前のことである。しかしその当たり前の苦労が、どうしてこんなにも絶望的に億劫になってしまったのか。まるでわからない。こうあってはいても、やはり文章的世界は私から遠いのである。

以上書いたことは、首尾一貫していないようなところも含むが、徒然なる思考の過程をそのまま記したものなので、あくまでも日記としてみなすことにする、あしからず。