山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2023/04/08/162101
この記事で書いたことについて、また思うところがあったため、再考しながら考えを書き出してみようと思う。


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この私を彼らは、存在ごと否定したいからこそ、ありとあらゆる手段で妨害行為・攻撃行為が行われるのだ、と考えることもできる。だが、ある行為と別のある行為とが「一つのもの」であるためには、それが何か具体的な「問題」「理由」によらねばならない。具体的なそれによらないのであれば、私への妨害行為・攻撃行為どもは、彼らの気まぐれによる、ただの八つ当たりであることになろう。ただ気まぐれとは言っても、ある種の理由、らしきものを根拠として嫌がらせを行うということはあるかもしれない。その場合は、理由というのは、本当はどうでもいいのであり、それは、その行為の正当化のために捏ち上げられたものに過ぎないのである。結局はそういう場合、根本的に否定されているのは、この私という存在自体であり、真実には、私が持っている行為の履歴・経験の履歴の内のあるものであるわけではないのである。だから私が彼らの言う通りに、何かを改めようとしても、結局は根底的には意味がない。彼らはきっとまた何か理由、らしきもの、を見つけ、私に対して散々の嫌がらせをするであろう。あるいはそうでなければ、というよりも、こちらの方が該当する可能性としては高いと思うのであるが、ある種の主従関係・上下関係要するに服従の態度の恒常化を強制される、というあり方にもっていかれるということが起こってくる。これは、やくざな人間関係へと向かってゆく方向である。私が今現実的に近づきつつあるのは、まさにこうした隷従的関係性であり、それによって私個人の精神環境の安寧秩序は保たれるようになるのではないかと思われる。そして私は現にそうなるのではないかと恐れる。上の機嫌に逆らわない限り、仮に曲がったこと、正当でないことであったとしても、それは精神安寧上まかり通ることになる。私の素直な想念・着想・感想等は、全く人格的に価値のないものあるいはネガティブな価値を持つものとして、要するに罪として、扱われることになる。これは世界が現在向かいつつあるある種の方向と軌を一にしているのではなかろうか。

結論を言うと、私は次の転生は、超管理社会の人間となるか動物となるかどちらかではないかと思う。自由な世界へと羽ばたいてゆく言わばスピリチュアル的勝利の世界への切符を私は霊的に持ち合わせない。彼らは、真実を理解しないが、まさにそのことによって成り立つ秩序のなかに存在しており、彼らの枠組みのなかに私という霊的存在は完全にはめ込まれているようである。したがって私はその線を延長していって、そういう世界線の上にしか存在できないことになる。非常に残念である。

それとは別に、私は私としてカルマを返していかねばならない立場にある。そのことも忘れてはいけないだろう。