山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

守護霊の幼稚さ--ある種の讃歌

今の私の魂の環境は、永遠なる闇とでも言えばよいだろうか。彼らはもっと滑稽なものを想像したりしているようであるが、実際にはもっと、そんなものでない、暗闇である。霊性高いもの風に振る舞っている周辺存在たちの実質的な幼稚さが、私の魂に、おそらく類魂ごと、無限の闇をもたらしていると言えるのだろう。真実には無理がないとも言うが、この環境は無理がありすぎる。それを当然のこととして受け入れよという態度が中の人の態度であるが、そもそも無理を作り出した原因、つまり彼らを成敗することから始めねばならないのではないか。

彼らは一貫して「罪のお前が悪い」などと言うのであるが、私の内的直観は明らかにこの姿勢に拒否反応を起こしている。守護霊まで含めてそんなに幼稚であっていいものか。罪とは何のことであるか。彼らの執拗な妨害行為は罪ではないのか。こういうときに、一々細かいことを思い出せないのがあれである。一々思い出せれば個別に断罪可能であるが、現在の状況では、全体的な印象に対して云々せねばならない。そして彼らも実際細かい一々のことについてでなく、全体的な私への印象に対して「謝れ」などと言っているのであり、その時点で、本来個別のことがらに向けられるべき謝罪請求行為は破綻しているとみなすほかない。私は、彼らについて、今はどうしようもなく印象論で述べているが、その弁えは踏まえているつもりである。

彼らは何かよくわからないことについて根に持っているようであるが、それが「何」であるかというのは実はどうでもいい。要するに私に対して隷属的な関係を、謝罪行為等を通して構築できればそれで彼らの欲求要求は満たされるのである。そこが彼らの一連の行為の根本動機・背景であろうと思う。あとは偽装された正義感、とも言えない強迫意識、を引っ剥がさねばならない。


もっとも、私にはひとまとめに「彼ら」とまとめられて映るのであるが、実際にはそうは言い切れないのかもしれない。やはり事柄について、それぞれ違う態度を示す存在と存在とがあったかもしれない。ただ区別を明確に示すマークが私に対して現れて来ない。責める声がひたすらに聞こえてくる。それが私の周辺環境をなす霊たちの総意であると理解するしかない。

守護霊が正しいわけではないというのが、この私という一つの人生を通じて理解できたことは財産だったとも言えるのではないか。

今、つい今書いた文の句読点の位置をめぐって一つの判断行為が私の内にあったが、彼らはこの同じ結果を、「強迫的」に(そして脅迫的に)良いと判断した。こういう幼稚さ、そしてそれを責任を持って承認する守護霊のこれまた幼稚さというものが問題なのだと私は言いたい。結局、彼らの思念干渉がクソなので、句読点の位置は最初の判断と異なるものにした。

ま、こういう些細なことで、彼らの全体的な態度が伺い知れるのである。