山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

無個性へと至る道

個性が全く消えてしまった方が、状態としては幸福ではないか。あるいは幸福そのものとはそのような状態のことではないか。なぜ個性を人格としての第一の原理に置く必要があろう。人格をそのまま無個性的に捉えて、実際にそこに入ってゆくということができたらいいな。個性とはかえって、無個性的になった絶対幸福の結果「そこ」に出来上がってしまっているものではないか。本来無個性的ではあっても、我々は「ある位置」に場を占めているのである。しかし、それは人格としては無個性的なものなのである。「ある位置」が、全体性を表現するとき、その「部分」は、その周りから独立し、そしてその結果それは個性となる、ということなのではないか。だから個性とは、個と全体との邂逅を前提しているものと考えられる。その邂逅の以前には、そこにあったのは個性ではなく、単なる「ある位置」「ある部分」である。それが、一応は、そこにあるものが個性的なものと考えられる理由である。しかし真の個性とは、そこにおいて全体的なるものが表現されなければ成立しない。すなわち、彼は無個性的なものとならなければ、その個性というものは存在し得ないのである。本来の無個性的な存在に戻るとき、彼は真に個性となる。戻るとき、というのは、そこには表現を伴っているから、「ある位置」性と「全体」性がそこには同居していることになる。個(この場合は「ある位置」的な)としてのあり方を失って、彼は真に個性となるのである。

問題は、「ある位置」を占めるものが、なんで一つの全体性になる必要があるかということであり、はじめから無個性なるあり方が可能ならば、わざわざ表現の「場所」を作らないでも、そのままの「無個性一面」があればいいではないかという疑問が生まれる。これに対してスピリチュアル的な回答を与えるとすれば、それは人間という存在によって、「モニュメント」を作り出す、という目的がそこにあるのだ、ということになろう。しかしそのこと自体なぜなのかとさらに問うてみれば、それはもはや私にはわからない。モニュメントというものが、人間にとってどうあるのか、それらの項の関係性はどうであるのか、といったことについて考えることが、この問題に回答を与えるための鍵になるかもしれない。

存在はなぜ、こうした動くモニュメントを必要としたのかということが問題である。




メモ:

与えられた個性(未発達の個性)と、自分で作る個性(真の個性)とが存在すると考えてよいであろう。一応個性的なものとして認められる「ある位置」を占める存在は、そこから無個性に至ることによって、そのまま個性そのものとなるのである。