山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

無個性へと至る道 2

https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2023/05/29/092029

上の記事の続き。



作られた時点では我々はまだ個性を持たず、個性の種のようなものを宿していると言えるのだろう。しかもその「個性」とはまさに無個性のことなのである。単なる無個性と真なる根源回帰的無個性とは区別されねばならない。単なる無個性とは、類的には分別されるが、未だ真なる「個」には至らないという意味での無個性であり、真なる無個性とは、真の個に至るとともに全ての区別をそこにおいて忘却、没滅させるという意味においての無個性であると言える。真の個の発見のあるところには、単なる個の発見にはとどまらない何かがある。単なる個の発見というのは、結局は突き詰めると類的なものの発見に過ぎない。真の個というものは、類的なものを突き抜け、しかも類的なものの場所に戻ってくる、そのため、「この位置」に過ぎないものは「全体」として聖化されるのである。そのため、彼の周りには、意志がはみ出すことになる。意志的なものの本体は無個性そのものであるが、それが類的なもの位置的なものに宿ることによって、それは意志として現れることになる。意志とは結局自己回帰の働きであることになるのである。意志は、類的自己否定を経て、無個性に回帰し、しかもその過程によって、類的なものがそのままに聖化されるのである。それは無限の発展の物的基盤と言うことができる。類的なものが一度聖化されれば、彼は自己の本体をいつでも思い出すことができ、個としての発展を遂げ続けることができる。

そもそも類的なものが、一つの「個」ともみなすことができるというのは、何によるのであろうか。それは、実はそれが無限の種を宿したものであることによるのである。個とは一つの全体性である。したがってそれは直ちに全宇宙と同格の存在であることになる。であるのに、個は、類的系列のなかに位置を占めることができる。それは有限の個である。ところが、個は個として一つの全体性であるから、常にそれが、この有限なるものからはみ出る何かを持っていることになる。それが意志なのである。普通に、個と類とが区別されるわけも、結局は意志の有無から考えられるのではなかろうか*1。ただし、普通に考えられる個とは、真の個ではなく、結局は類的なものであるから、真の個という概念によって、真に意志的なものの概念に辿り着かねばならないのである。個と類とが別にあるのでなく、個がはじめから自己矛盾的に個であり類であるのである。その自己矛盾があって初めて、進んだ先は自己自身への回帰である、すなわち自己から自己へと無限に発展してゆく存在であることができるのである。この自己矛盾がなければ、類から個へと至った時点で、我々の生命はそこで終了してしまい、後に残されるのは単なる生物機械であることになる。しかし我々にはそもそも根源的に、無限の発展の可能性が与えられているのである。進んだ先は、個という名の類であればこそ、真の個はいつも、虚なるものとして、あるとも言えず、ないとも言えないものとしてあることができる。進んだ先にある個は概念上は類でもあるが、しかし一旦聖化されれば、それは実際のところ個という名を得ることができ、また類的なあり方は、よりスケールの大きな意志的レベル、すなわち博愛的レベルにまで高まって理解されることができる。それは無限発展・人類共和の象徴と言うことができるのである。

*1:意志を持たぬ「個」というものが普通に考えられるが、意志を持たないと考えられる限りのそれは、類的なものと言えると思う。ここでは意志という言葉を広い意味に理解したい。すなわちそれが資格として全宇宙をそこにおいて表現できているか否かというポイントによって、意志的、非意識的とを区別するのである。全宇宙に直接触れ合っているものは、全て意志を持つのである。それが普通に個と考えられるものであるが、しかしその普通の個というものが、やはりそれだけでは類的なものに過ぎないのである。