私は中の人たちのことを理解している。中の人たちは、私が彼らを理解しているとは思っていない。おそらく、そのために、私の筆記というのは、馬鹿にされるような意味で「非常に良い」と言われるのであろう。
この人たちにはこの人たちなりの価値判断の基準があるようで、その第一に挙げられるのが「(この私が)自分の直観を使わないこと」というものである。そもそも全ての文章は、そして行為は、私自身の直観からしか生まれてこないものであるから、彼らのやろうとしていることには意味がない。直観を使わない、と彼らが言うことの意味は、要するに全面的に憑依させろ、ということである。私をただの道具として扱いたく、しかも厚かましいことに、それによる「功績」をこの(直観を使わないはずの)私に認めさせたいのである。だからこそ、彼らはよく「ね」という言葉を使う。この「ね」は、私が少し理解に詰まったときなどに出てくる言葉である。お前はもともと無能力だ、という意味がそこには込められている。そう言うことによって、自分の「優位さ」を、(直観が使えないはずの)私に対して認めさせようとしてくるわけである。目指すは完全憑依であり、そして自分の価値観に(繰り返すが直観が使えないはずの)私に賛同させようとしてくるのである。
私の「直観」の働きが弱まれば弱まるほど、うまく機能しなければしないほど、彼らは「非常に良い」と喜ぶ。こうした文章を書いていて、自分でも文意が少し不明になり出したときにも、彼らは非常に喜ぶ。それによって私に優位に立てたとでも思っているのだろうか。私はただそうしたことについて反省し書いてゆくほかはない。これが、この争いが、現在の私の精神生活のほぼ全てと言っていいのである。私から言えばそれは、陳腐、恐るべき(圧し来る)くだらなさとの闘いであるということになる。
ところで、この人たちを、つまり陳腐さを押し付けてくる人たちを超えた、私だけによる生産的な営みとしての筆記というものは可能なのだろうか。ここも、書いていて何が言いたいのかわからなくなってしまった。私はともかく筆記は生産的でありたいと願っている。哲学的な問題に入ってゆくことも、心の内のある部分では期待しているが、現時点で、とてもそういうことができそうな精神状態にない。ただこの異常を綴ってゆくほかはないのである。非常に残念である。