私はよく中の人に褒められる。すなわち責められる。褒められることの理由は、私が彼らを断罪する日記を書くことにおいて「恥を晒している」らしく見えることである。他には、自虐的な神経症的態度をとった時(これは説明が難しいが、日常の強迫的行動と言ってもいい)に褒められる。この後者の場合において、私は褒めらながらすでに責められている。「そういう風」にしなかったら、許さない、というメッセージが、その称賛の中にはある。前者に関しても、この本意はもちろん褒めているのではない、それは人の足を引っ張るような心と同様の心から出てきたものである。だが私が書いていることに間違いはない。彼らの下劣さは私が普段からよく認識するところである。注目されて嬉しいということもあるであろう。私に注目され、かつ、それが私の誤断罪となると見えること、これがこうした文章において彼らの喜ぶ理由であろう。
さて、この文章はまた、「美しい」のだろうか。私が間違いを晒しているように見えるのだろうか。
足を引っ張る云々と書いたが、なるほど実際私がこれを書くにも、内側から足を引っ張られながら書き進めるしかない。干渉行為は筆記の内に入り込んでくるのである。軽重、時により程度の差はあれど。今回の場合は、軽めである。だから、書いたものを上げる段階で、彼らの「力」が反映されてしまっているらしい点を褒めるのであろう。