山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

直観は意識的直観に依存しないで存在するものかもしれない。ただ私の非意識的直観によると、誰かの下心が直観的に感得された。直観を捨てて、と中の人のうちのある人たちに言われることが多いが、意識的直観に依存しない直観は存在することから、そういう発言は出てくるのであり、だから私は直観を捨てるわけではないが直観を捨てているのである。彼らが言う意味での直観を捨てる、とは、彼らの自己都合に意識的直観*1を乗っ取らせよということであり、それはできない相談である。非意識的直観は、意識的直観よりも深いものを捉える。彼らに私の直観領域を乗っ取らせたところで、すでに無意識的部分は深くはみ出してこれを包んでいる。行為が善であれば意識の筋は通り、そうでなければ根源的違和感が作動してこれを取り除くべく働き出す。

意識的直観を捨てる、ということが、彼らの都合に合わせることになるのであるが、非意識的直観は、彼らの下心をより深く見ている。非意識的直観は、最終的には意識的直観において現れ、確認されることになる。非意識的直観は、より包括的な調和を体現するためのプロセスを作動させる機能を持っている。




無意識の直観とは一体どんなものだろう。直観は意識的部分と非意識的部分との間を動き回るものとしてひとまず考えてみればどうであろう。認識がその時々に安らう場所として、意識的あるいは無意識的領域があり、あるときは前者に、別の時には後者に、認識は自己の場所を持つと言ってよいのではないか。私は、意識的領域は、無意識的領域を無視できないことを、多くの場合直観している。そのために熟考のプロセスというものがあるのであり、その場合私は認識せずしてこれを認識しているのである。反省によってこのことは「意識的」にも、了解される。これによって無意識的に思考していたことがわかったのである。とすれば無意識的思考はまた、意識的領域を無視できないということになるのだろうか。事実そうであろう。それは表現されることを常に求めている。熟考のうちにあるものは言葉によっては捉えられないが、言葉において表現されなければ自己の形を持つことができない。無意識は意識の針を自己のバランスポイントとして利用する。さて、このプロセスのどの部分で、私の認識は意識的領域に安らいあるいは無意識的領域に安らったのであろうか。私は熟考のプロセスそのものにおいておそらく無意識的領域のうちに安らい、表現において意識的領域に安らったと言えるのであろう。あるいは単純にそうと言うことができないかもしれない。熟考には、特定の思考断片の反復といったプロセスが含まれることが多い。このとき私の認識はこれへの意識に釘付けにされている。そのために私は意識的には意識の内にめり込んでいるようであるが、認識そのものはこれによってより深い領域へと沈み込みつつあるようである。無意識の淵から、私は意識のうちに、本能的な、衝動的なあるものを感じるようになる。ここにおいて私の意識は何かに呑み込まれるように表現の光輝を得ることになり、認識はこの一点に集中することになる。全く無意識に衝動的であるものは、意識と無意識において通された一本の筋において、全て明らかな、照らされたものとなるのである。


以上を踏まえると、認識は常に複合的、多層的である、と言ってよいのではないか。ただ、そこに意識的と無意識的との違いが常にあるというのみであるということになる。無意識的な認識は、のちの反省において言語的な形式によって認識されることになる。意識的な認識と無意識的な認識は常にずれてあると言うことができる。私はこの筆記に集中しながら、無意識的には全宇宙を認識しているのである。でなければ私が「ここ」において、表現することもできない。「ここ」に表現する、ということは、全宇宙を前提するということなのである。認識は常に多層的であるとともに、ある形式に当てはまるものを認識なのだと呼ぶこともできる。それが意識的認識の言語的形式における認識だと考えることができる。

認識できないものは、認識できないものとして、認識されている。言語的認識の価値は、そのような非認識を認識に高めることのうちにある。しかし非認識もやはり認識の一つのあり方なのである。私は、誰かを知るとき、相手が私にとってどのような存在であるかを、測って、そこから段々と人間の内実についての認識に深めてゆく。私にとって「こんなもの」である、というざっくりとした認識の仕方がまずはじめに来るのである。これは、未だ認識されていないものへの非認識、ではなく、それへの原始的な認識であると言うことができる。しかしこの原始的な認識を非認識と呼ぶのが、形式的認識の立場なのである。ときに原始的認識は、形式的認識を超えた力を持つことがあるのであるが、これはそれが単なる非認識でなく、やはり認識なのだというところから来るのである。形式的認識の立場は、認識を責任的なものと捉えるところから来るのではないかと思われる。意識的認識が無意識的認識を表現的に包括するところに、形式的認識の立場がある。この責任を果たすことで、物は一つの全体的世界における物としての位置を持つことになる。なぜなら言語とは一つの社会的全体性だからであり、命題の形式はここに根拠を持つものだからである。命題とはいわば世界における一つの持ち場である。


思考よりも身体が先に動くということがある。こういう場合における「認識」とは一体何を指すのだろうか。認識とは常に多層的に捉えられなければならないのだ、ということが、こうしたあり方を考えてみることから、わかってくる。

*1:後で読み直して、少し言い方を変えた。元はここは「非意識的直観」とあったのだが、意味が通らないと判断し、このように変えた。実際、今でも、ここに当てはまる言葉は、その両者のうちのどちらであるか、わからない。