山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

それを褒めるあなた方の「動機」は?責める道具ではないか

守護霊の霊性の低さが今日も現れている。私は今日の選択に心から後悔しており、二度とこんなことはすまいと思っている。買わなければよかった。本当に、本当に、心から後悔している。この人たちは道徳というものを何だと思っているのだろう。子供以下、獣以下。霊性低し。中の人「これで哲学あげて」だって。

今日のこの選択に、彼らは美しいという評価を与えた。しかしその心はただの怒り、八つ当たりなのである。この矛盾を彼らは道徳的にどう説明するのか。幼稚な人間の八つ当たりと何も変わらない、と言うよりも、そのものである。

私の今日の選択は、「思いやり」を動機としていた。そのことが彼らには美しいと見えた。それだけの話ならば何もないことである。しかし彼らはそれを八つ当たりの心において評価行為するのである。何か類型化され都合良く固体化された形骸的な「思いやり」観念というものがあって、それに従わなければ「許さない」とする、そのようなあり方である。それは結局、客観的に道徳的であるのではなく、個人の勝手な他虐的なエゴにすぎないのである。要するにこの私が自虐的であることが、彼らにとっての望ましい事実なのである。彼らにとっての私の「思いやり」とは、私が自虐的であることであり、私に真に思いやりが実質的にあることではない。それはただ単に形骸化した、しかしエゴの都合に用いることのできる全く意味のない事実なのである。これが道徳的観念とはとても言えまい。

こうやって書いても、読む人には何のことやら伝わりにくいとも思うが、ともかくこれをもって今日の日記とさせていただく。彼らの霊性の低さをこの身に直接感じながら。