私の場合は、幻聴は文脈的であるから気持ち悪い、ということになりそうである。つまり、「どこが問題なのか」が肌感覚で、一応わかる、ということである。その上で、相手が正しいことを言っているかをよく考えないといけない。幻聴だからと言って、全て突っぱねるものでもなく、取り入れるべきところは取り入れるという態度も必要である。幻聴それ自体がつらいのでは、私にとっては、ない。文脈において、重くのしかかる具体的問題が生じてくることが問題なのである。それも多くの場合は、私にとって理不尽に現れてくる。私にとって理不尽でないのなら、それはもっと単純に様々な霊人との共同生活であるとみなすことのできるような有様であるはずである。
霊という概念と、幻聴という概念を並べて使うにはもっと慎重になる必要があるだろうが、私にはこの言い方が一番しっくり来るので、そう言うことにした。私の内に私とは別個の独立的人格が複数いるという事態を指して、霊的という言葉を使いたいと思う。そこで、彼らは霊人なのである。彼らも「人」であるからは、その人なりの人生いや霊生を歩んできたはずだから、その知性や感性にも、そのことが表れているはずである。こうした観点から私の幻聴を捉えるならば、それは妄想的とも言えるが妄想とも言い切れない文脈において起こる現象という捉え方ができることになる。