山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

「自分から声を出しているわけではない」というこの確かな感じを、言語化しようとした。

これを読む方。私が精神病だからといって気を遣っていただく必要はない。ただ私は私のために、いくばくかの事実を書き連ねようと思う。

我が精神病の症状として、中の人の、おかまへの働きがある。そういうとき、彼らの誘導にしたがっておかまの方に行かないで、平然と普通の男としての私であろうとしたとき、彼らの衝動は私の内的部分に引っかかって、その外的衝動により、斬殺されたかのような悲鳴が出る。衝動そのものは外的なものである。その衝動はもともと「おかま」をやりたがっており、私にそのように振る舞うことを要求している。しかし私は異性愛者の男性である。だから私はそれを無視して平然と振る舞う。そういうときにこの力は野蛮な衝動となって私の無意識的内のところへと届く。私の悲鳴はそこに始まる。すなわち力は全て外的なものであり、悲鳴の先端において私はあるが、この野蛮なエネルギーは彼らがそのような野蛮なものに転化させたものである。私は心より悲鳴するのでもないが心より悲鳴している。エネルギーは外的なものであるため、この斬殺現象は私にとって外側に感じられるが、野蛮なエネルギーが内的部分に届いたという意味では、その先端において内的な意味を持つ。しかしその力は全て外的なものであるため、私にとってはこれは制御不可能なものであるし、ただ単にこれは私の内側の外側で起こる現象にすぎない。私はこの現象に、日常の普通の振る舞いを阻害される。

今まさに書いているときにも、このようにしてつきまとってくる野蛮なしかもおかまエネルギーがある。これが私の内側にまで無理やり入り込んでくるフェーズがやがて訪れる。そのようなときに、私の意識がこれを無視しようとすると、野蛮なエネルギーは行き場所を失い、私の無意識に跳ね返って、この外的衝動のまま斬殺される悲鳴が起こるというわけである。

大事なのは、これは内的衝動ではないという点である。この野蛮な力は全て、この中の人たちによる外的なものに由来している。内的というのは、無意識に接触し、跳ね返るところにおいてそう言いうるのであり、力は全く外的なものでしかない。私は確かに悲鳴をあげているが、同時にこれは私から離れている。彼らの野蛮なエネルギーが私の悲鳴とともに解放されるのである。悲鳴も私には外的なものに感じられる。所詮外側の現象なのであるから。だから、むしろこの現象への私自身の「リアクション」の方が問題となる。私は悲鳴への傍観者である。野蛮な力は外的なものであり、悲鳴とともに彼らの野蛮な雄叫びが響く。悲鳴はただ先端にある。力は全て外的である。

 

うまく書けていなかったが、悲鳴は雄叫びのうちにあるのである。

 

内側からであればこのような声は出ない。例えば、肉体に、あるショックを与えれば自動的に叫び声が出るようなことはあるが、この場合これを内的衝動によるものというだろうか。そう言うよりも、これは自然な反応の仕方と呼ばれるものだろう。内的衝動とは、ふつふつと奥から湧き起こってくるものだが、それとは異なり、私の面している現象は間違いなく外的な力によるものである。私がおかま風に振る舞うことをそこでは要求されており、それに従う限りではこの衝動はどうも異常なおかま性の方に転化されるようであるが、しかし私が本来の自己のままに振る舞うとき、私はこの衝動を無視し、この衝動は私の無意識に無理やりねじ込まれることになり、その結果外的叫びが私から起こってくるのである。この場合それは反応ともいうべきで、しかもそのうち野蛮な雄叫びは彼らの声そのものというべきである。彼らのエネルギーと私の無意識の一時的なケミストリーによってこのような現象は起こるのである。

 


「自分から声を出しているわけではない」というこの確かな感じを、言語化しようとした。なかなか難しい。


「叫びたくなる」わけではないのだ。内的な衝動ではなく、外的力の物理的なケミストリーによってこうなるということ、その物理的というのは霊物理という意味であるということ、そういうことについて書きたかった。ただ、こうしたらこうなる、という事実のみを書いただけで、その具体的メカニズムがどうであるかということは、いまだにわからない。次に考えるべきは、この外的力を「無視」すると、なぜこの野蛮な雄叫びへとそれが変貌するのかというメカニズムについてである。

 

 

 

追記。同日。:私の無意識な根底からの拒否は、しかし何か内的衝動的なエネルギーによるものではない。だから叫び声は私自身の肉体から出ていながら、私自身にとって外的なものでしかない。