山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

昔書いた哲学的()アイデア

AUTHOR: settandono
TITLE: 量的な広がりと質的な広がりについて(インターネ
ット論)
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DATE: 08/31/2019 15:13:18
CATEGORY: 日々の気づきをきっかけとした哲学的考察 CATEGORY: アイデアノート

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前に質的に&#x
7570;質であるこ&
#x3068;と量的に異
;質であるこ0
68;との質的な&#x
7570;質性
について話をした。異質性
それ自体の内にも異質性があるという事実に興奮したからである。

それで、これは要するにこれは質と量との問題である。質と量との対比は色々なことがらの内に見出すことができるであろう。今ここでちょっと考えてみるのは、「広がり」についてである。

普通に「広がり」と言うとき、そこで念頭に置かれているのは、おそらく横に幅広く広がって行くような広がりである。それ以外の「広がり」の在り方など存在するのであろうか。

一つの平面があって、それがどこまでも拡大して行く様を想像してみる。例えば、我々が普段からよくやるように、パソコンや携帯の画面の表示を、拡大したり縮小したりすることによって、そ
の画面に含まれた画像なり文字なりをより見やすくしたりすることができる。なるほどこれぞまさしく「広がり」のわかりやすい例である。

こういう具体的なことばかりでなく、もっと抽象的なレベルでも「広がり」を考えることができる。例えば、何か本を読む。そこには私がそれまで考えたことのないことが書かれている。目から鱗であった。読んで得した。もっと勉強しようと思った。こういう場合、彼の視野が「広がった」と言うことができる。すなわち我々の心というものも、直接手に取って触れることはできないけれども、やはりイメージとイメージとが、概念と概念とが、感情と感情とが、入り組み溶け合ってそこに存在している一種の「空間」であって、それは私の精神の体験次第でいくらでも広が
って行くことができるのである。



さて、いま二つの例について考えてみた。ここで始めに言った「質と量」の問題に戻ってくる。このように広がりそのものにも質的な違いを認めることができる、ということが
わかった。そこで私は考えるのだが、普通に言う「広がり」すなわち横に広がって行くそれは、「量的な広がり」と言うべきであって、そしてこれはもう一方の「質的な広がり」と対比されるものである。

ではその「質的な広がり」
とは何かと言えば、それは実は「深まり」のことである。本を読んで知見が広がると言うとき、精神そのものは広がっていても、私の身体が大きくなるわけではない。こうした場合、そこには「深まる」という言葉を当てた方が良さそうで
ある。一般に何かが横に広がることができないときには、縦に広がるのであるが、その縦にもまた広がる方向がないときには、我々の精神というような、縦とも横とも言えぬ方向に広がって行くことになる。しかし精神のようなものは、縦とも横とも言えぬ、というよりも、「縦の縦」と言うべきではないかと思う。縦の縦ならばそれは、多分その平面自身から見ると、単なる「原点」にしか見えないであろうと思う。例
えば、X軸とY軸を引いてできた平面を、真っ直ぐ垂直上から見つめたとして、もしここに「縦の縦」が引かれるならば、その観察者の視点からは、それは単なる原点でしかない、と
いうように。そして「縦の縦」を、二次元世界という観点から見ると、どうしてもそれは単なる点のようなものにしかならない。これをしっかり見るためには、視点を斜めにずらし
てやる必要がある。そうすると、軸の方も斜めになる。立方体を斜めから見ると六角形になり、正八胞体だとなんだかもっとグニャグニャした感じになるだろう。つまり「縦の縦」
に行くほど、すなわち「深まってゆく」ほど、平面上の現れとしてはグニャグニャすることになるのである。






インターネットが持つ「広がり」

なるほど、深まりというのを広がりの一種としてみなすことができるということには、色々と示唆があるようだ。

例えばインターネットもまた一種の「広がり」であるが、この広がりは、実体としての世界の「広がり」とは比べられる類のものではない。しかしインターネットの空間自体が、実体としての世界から浮遊して存在するわけでも
あるまいから、実際には、我々はパソコンとか携帯の画面を通してこの電脳空間にアクセスするのである。そしてこれら個々の機器は、我々の世界の優れた通信技術によってうまく結びつけられている。ところが我々は、電脳空間を単なる「画面と画面との飛び飛びを結びつける網」だと思って、これを利用しているのではない。電脳空間は、実際にそれ自身の「広がり」を持った空間である。すなわち電脳空間とはそれ自身実体性を持ったものである。決して観念的なものではない。そしてそれは我々の現実の世界の内で常に一定以上の影響力を持っている。

そうすると、もともと実体と考えられるものが、すでに観念的であることにならないであろうか。この段落は読み飛ばして構わない。実体とはそれ自身によって在るものである。実体に観念を対比させるなら、観念とはつまり他によって在るもの、ということになろう。他によってあるとは、要するに私の思考その他の精神作用に依存して存在するとか、そういうことである。なるほど、しかし本当に、ただ一方的に「他によって存在する」ものなど、あろうはずがない。なぜなら私の内の観念というのも、
すでに私そのものとは区別される以上、私ではない独立したものと考えられねばならないからである。例えば、ある観念が思い浮かべられるとして、そうした観念がなぜその「姿」をしているのか、ただ単に私が思考するということだけからは、どうしてもわからない。それがまさに「それ」であること自体は、どうしても私にとって偶然的である。観念だって認識されるものである。私の内に「ただ在る」ものではない。私にわからないものがあるというのは、それは私を越えたところに存在を持っているということでしかなかろう。このあたり、何言っているかわからない方は、デカルトの『省察』を読まれることをお勧めする。今の時代なら青空文庫で読むことができるhttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%c7%a5%デカルト風に突き詰めて考えると、以上のようにならざるを得ないのだ。

そうなると、ただの妄想などというものであっても、それは「存在」としては、私にとっての他者だということになる。つまりこれはここからの論理的な帰結であるが、単なる妄想ですら、存在としては全く「人格的」なものであることになる。一片の妄想にも、生命が溢れているのである。


とにかく、一片の妄想にも生命が溢れているということの証左は、特にインターネットにおいて我々の妄想を見事に満たしてくれるコンテンツに出会うことができるということの内に見ることができる(もっともテレビゲームやビデオなどの登場がこの傾向の直接の起源と言え、またマンガなるものがその更に奥に大きな潮流を形作るものとして存在している)。今時は、例えば様々な萌え画とか、BLとか、そうした類の絵描
きが多く存在し、またaclass="keyword"href="http://d.hatena.ne.jp/keywordyoutube"YouTubeツイッターや同人サイトなどで発表されていて、優れた作品に日常的に接することができる。これらの物はゲームやマンガといったオリジナルのも
のから派生した二次創作であることが多い。そうした諸々のコンテンツは一つのれっきとした創造的営みとして理解されているのである。

なるほど昔から日本には春画などというものがあったが、それは日本という国に住む民が、もともとインターネット的な空間感覚を持
っていたということを示すのではなかろうか。なぜなら本来、公と個人とがはっきりと区別されるいわゆる文明社会においては、このような個人的妄想を端的に満たすものというのは、なかなか公に一つの「生産物」として、コンテンツとして、すなわち一つの立派な仕事として、出現してくることがなく、それを公に出す行為は悪徳とみなされるほかないからである。西洋においては、女性の裸体をモデルにした美術
というのは、男性の端的な性的妄想を満たすものとしてではなく、あくまでも「美の象徴」として観念化された上で描かれ、彫られるものであって、無論そうした作品を所有する個人が、そうした作品をいかなる仕方で使用(放送禁止)してみても一向に構わないはずであるが、とにかく「公」という性質を持ったものとしては、女性の裸体とはそんなものでしかない。ゴーギャンは東南アジアに行ったのである。このような社会においては娼婦などはやはり蔑まれる職業であったはずであるが、日本においては吉原におけるように娼婦はむしろ一つの立派な職業であった。*1大戦中の従軍慰安婦というのも、一
つの職業として尊敬され、それなりの待遇を与えられたようである。日本では娼婦というのが蔑まれる理由はもともと根本的にはなかろうし、坂口安吾が描き出してるように、 戦後のいわゆる「パンパンガール」というのは実に陽気なものであった。今でも日本では蒼井そらはじめ多くの素晴らしい AV俳優達が尊敬されるべき人達として認知されている。紗倉まなというAV女優は文筆家でもあり、独特の視点から優れたエッセイや小説を生み出している。しかしオリエント世界を含めた広い意味での西側の社会においては、娼婦である人間に敬意を払う存在は、一種の聖人もしくは変人であるに違いなく、例えばイエスなどという人がそれであった。しかし日本では、少なくとも吉原の周辺においては、イエスが娼婦を尊敬するということ自体あまり大きな意味を持たない。イエスにもやっぱり世俗的な意味でのイチモツが付いてたんだね、と思われるくらいである。さてインターネットというものの出現において、こうした妄想的なものの一切が、堂々と「公」のものである資格を持つことができるようになったのである。そこにおいては観念が観念であるままに実体性を持つことが、前よりもずっと容易になった。*2

そんなわけで、私が言いたいのは、お題目「観念は実体であり、実体は観念である」、これである。このお題目はドイツ観念論者が唱え出して以降、あまたの哲学徒が恭しく拝受、顧みて世界諸国民に向け有難きお言葉として復唱し続け、麗しくも現代に至るまで受け継がれてきた概念である。私もこれを受け継いでいるのであるが、残念なことに、このお題目の真に意味
するところが理解されているとは決して思われない。なぜなら哲学者は、インターネットすなわち電脳空間などという、まさに実体性を持った観念的なものの、これ以上ない具体的
な例を目の当たりにしてもなお、このお題は、ドイツ観念論者の一つのテーゼであるという以上に理解しないからである。実体とか実在というのにこだわるのは時代遅れの考えなんだそうである。しかしそうした考え自体がすでに実体化しているように見える。そしてそうした考え方は極めて観念的であ
る。こうした有様の内には、概念の「深まり」はない。したがって、そういう意味で、真の意味での哲学の「質的な広がり」はないのだ、と言って良かろう。

私がインター
ネットという場で哲学をやろうとしているのは、まさにこのような事情を私なりに哲学的に捉えて、この時代に対応しようとしているからである。研究論文の形を取らないのもやは
りこのためである。今の時代には今の時代の行き方があると思われる。無論行き方には無限通りあり、私の行き方が全てであるわけではないし、安易に非専門的な道なき道を行こうとするならば、道ができるどころか、途中で獣に食われて遂に道のミの字もそこに存在せぬような事態に陥り兼ねない。しかしいかなる道も、もとは未知から生まれてきたものである。未知にはすでに道が見え隠れしている。秘密基地はその
奥にある。すなわち未知はすでに既知であり、既知はすでに未知であり、道と基地とを結ぶ哲学者の手腕は、世界の秘密である。しかし道なき道にミの字を敷くこともできなかった
ならば、彼は基地の外にほっぽり出されたまま、気が違うなり、獣に喰われるなどして、その身を滅ぼしてしまうかもしれない。

さて、このような今の時代なりの行き方
も、やはり哲学や学問の研究の一つの「広がり」である。と私は考える。しかし、こうした質的な広がりがあるからと言って、従来のスタイルが無駄になるわけでは決してない。従
来のスタイルは、より深い「広がり」においての一つの「広がり」ということになると思われる。立体の広がりと平面の広がりとは全く同じところに同居できる。これは万事にわたって言えることである。例えば、我々の生物界の進化というのは、決して物質から、原生生物、動植物、猿、人間、というような直線的進化の道を辿っているのではなく、むしろ猿は猿として進化しているのであり、あらゆる生物はそれぞれ
の形で進化しているのである。ベルクソンの『創造的進化』が明らかにしたように、植物とは決して、知能を持たない、生命のより原始的な形態であるわけではない。それは、
人間とは別の仕方で同じ「生命のはずみ」を行き渡らせているのであって、ただ「生命のはずみ」をまさに弾ませるための、機能、役割の異なるというだけであり、世界全体として見れば、全ての生命の形は、機能的に補い合うようなものになっている。

「生命のはずみ」は自ずから二つの局面を持ち、すなわち「エネルギーを蓄える」ことと、「エネルギーを爆発させる」こととである。生命の本質とはこうした呼吸、脈動である。植物はエネルギーを蓄えるがその瞬間的な爆発には適していない、動物はエネルギーをあくまでも植物に依存するが瞬間的な爆発に長けている。人間はそれ自身動物であるが、知性を持つことによって、この一連の働き
を「意識」していることができる。人間はエネルギーの爆発を単なる爆発ではなく、「形」に表現することによって(人間の文化は全てそうして生まれるのだ)、新たなエネルギーの蓄えに回すことができる。それは知性の働きによって、有機から無機を区別し、無機を意識的に操作することができるからである。つまり「エネルギーの蓄え・爆 発」という生命のはずみの脈動のサイクル自体が、人間にお いては、より「深まった」場所において行われることにな り、これは言ってみれば生命サイクルの進化・深化である。 しかも人間は同時に動物として、やはり植物と動物の間の脈 動のサイクルの内にも生きていることになる。こうした生命 の創造的進化こそが、我々の世界の働きである。我々が意識 の奥に触れることのできる、全ての物が相互に溶け合い、一 瞬たりとも省みることなく不断に進行し続ける「純粋持続」 とは、そのままこうした生命のはずみに直結する道である。

とすると、我々の世界のいわゆるインターネットと いうものも、こうした「生命のはずみ」の一つの上手くいっ た「結晶」として理解できることになるわけである。人間と いう生命の在り方もまた、動植物の間の生命の脈動のサイク ルをもう一つ「深めた」ものであるように、人間社会にとっ てインターネットというものは人間社会内部の生命の脈動の サイクルの進化・深化であると理解できる。しかしインター ネットが存在してもなお、我々の周りには部屋があり、屋外 があり、鳥が啼き、会社や商店や工場や研究者があり、また ちょっと田舎に出ると畑や田んぼがあり、そこで人々が働い ているのであって、インターネットというものは彼らの仕事 の支えにはなっても、地に足つけた彼らの仕事そのものはな くなることはない。むしろ地に足つけた彼らの仕事は、イン ターネット空間の影響を受けて、より流動的に、創造的にな るものと考えられる。




さて、大体論じるべきことは論じた。最後にもう一度確
認しておくと、量的な「広がり」と、質的な「広がり」は区別され、後者は特に「深まり」と呼ぶべきであろう。そして後者こそが生命のはずみの爆発的発散の「モト」となるのであろう。マントルは地球内部をグルグル巡 っているだけであれば、なんともないが、実際に噴火のエネ ルギーとなるときは、地殻なども巻き込んでマグマとなるこ とによって「縦」に溜まるのである。この質的な「広がり」 の、よく表現された形が、現代の我々が日常的に接すること の多いインターネットというものである。最近AIがどうのこ うの言われているが、このAIなるものも、生命の脈動のサイ クルをうまく深化させるという意義を持つことによって初め て意味を持つのであって、AIが人間の知能を越え、人間を支 配するのだ、などという予測は実に馬鹿げている。人間はそ んなに馬鹿なものではないし、愛のない存在でない。AIとい うのは愛を、ただ愛として受け止めずに、余計な「知」によ って分割してしまったことから来るものとも言えるかもしれ ない。しかしそれもまた生命のはずみの愛から生まれて来た ものであるのだから、分かれたものは、またやがてサイクル の内でうまく統合されることになる。ともかく知よりも愛が 先にあるのである。知は広く、愛は深いが、前者は量的な広 がり、後者は質的な広がりという違いがあるばかりで、した がって愛はまた広がりでもある。広がりを包む広がりであ る。愛がやがて知によって「広がり」の域に伸び切ったなら ば、その時こそはきっともっと深いところから、新たな愛が 弾んで来ることになる。AIの奥にはまた愛が控えて待ってい る。我々は素直にそれを期待しようではないか。

*1:それは個人と公とが未分といういわゆる未開的な在り方ではなく、個人と公とが区別された上で、その公が個人を包み、個人が公を包むありかたをしている、ということである。個人と公とが柔軟に区別されていて、これを敢えて言うなら「超文明社会」と言うべきである。昔、本居宣長が日本人は漢意を拝し「やまとだましひ」で行け、と言ったのは日本という国のこうした性質を彼なりに直観したからであるに違いない。

*2:萌え画とか、エロゲーとか、そうした分野にお いて、日本はおそらく世界でも類を見ないハイレベルな文化 を有していると思われる。私はこれを誇りに思う。またアダ ルトビデオなども、ビデオだけでなく、違法アップロードで あることが多いあろうがインターネット上にたくさん存在し ている。ただこれを「鑑賞」する人間としては、コンテンツ が違法であるかどうかということはあまり気にならないもの であって、目の前にある作品は作品として尊敬し、感謝し、 しっかりと「いただく」のである。ヘンリー塚本氏のAV監督 としての芸術的手腕を、私は違法アップロードによって知っ た。

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AUTHOR: settandono
TITLE: 「質的に異質」についてのメモ BASENAME: 2019/08/27/124640
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DATE: 08/27/2019 12:46:40
CATEGORY: アイデアノート -----
BODY:

質的に異質である。この言い方、決して、馬から落馬には相当しな
い。

なぜなら、「量的に異質」という言い方があり 得るからである。すなわち「質的に異質」と言うときの、前 の「質」と後の「質」とは質的に異質なのである。

では「量的に異質」とはどういうことか。これは普通に は使われない言い方であろうが、まあそれを言うなら「質的 に異質」も普通には使われないのだが、とにかく「異質性」 に量的と質的とがあるということを強調する必要があるとき に使うのだ。すなわち異質性そのものの質的な異質性を区別 するために必要な表現である。

例えば二つの物があ ったとして、それらがいかに「異質」に見えたとしても、実 はそれは見かけ上のことであって、それらの異質性はただ単 に「量的」なものに過ぎない、「質的」なものではないの だ、と言いたいときに、こうした言葉遣いをするのである。

そしてもし完全に質的に異質であるものを、まさに 質的に異質であり、それは決して見かけ上の異質さではない のだということを強調するときに「質的に異質だ」と言う。 すなわち、「量的に異質」と「質的に異質」とは質的に異質 なのである。

いつもとは質的に異質な記事になった が、なんだか面白いと思ったので書いた。

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AUTHOR: settandono
TITLE: 苦労人らしき人々 BASENAME: 2019/08/22/213658
STATUS: Draft
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DATE: 08/22/2019 21:36:58
CATEGORY: 雑感 -----
BODY:

苦労人らしき人々の苦労人らしからぬ振る舞い。苦労することに辛さが伴うと、あるところで生活が安定してきた時に、もうその立場を守ることにしか関心がなくなってしま
う。そしてそれ以上のものが見えなくなり、苦労人らしからぬケチ臭い根性で生きることになる。苦労を買ってでもせよとは、実は保身の立場からのもので、本当は苦労に苦しみが
あってはならぬ。苦しみが出てきてもそこから苦しまぬような状況になんとか変えようとするところに苦労というものがあり、苦しみを苦しみのまま正当化しようとする苦労は、ど
こかで進歩を著しく疎外している。本当に人生の糧となる苦労においては、苦しみが苦しみでなくなり、したがって苦しみがない。苦しみを苦労と言い聞かせるその心、これだけ苦しめば十分だろう、という甘えがそこにある。本当はそこから自分自身のこの臆病な部分を直視して、そこからまた新しく進歩の課題を見つける必要がある。ところが周りの人間が大御所扱いしてしまうから、相当意志しなければそのチャンスすらもぎ取られてしまう。本人もなんだか周りのおもねりに良い気分になって、そこで進歩を止め、この蜜月を少しでも妨げそうな一切をそこから排除しようとする。


りの人間が彼を大御所扱いするのも、いずれは自分がそうなりたいからであり、現在の自分が辛いからである。本当に心から尊敬しているからではなく、利己的な理由からである。それ以外にない。すなわち甘え合いである。そして彼らもまたその辛い状況を、「自分は苦労しているのだからいずれ報われるのだ」と合理化して言い聞かせることによってなんとか救おうとする。ところが辛い状況とは、本人の心のどこか
に、何かそうならざるを得ない不自然なところがあるということなのである。私もこのことは頭では納得できないが、どうもそうでしかないみたいである。

六十の手習い、死んでも手習いくらいの心持ちで生きるのが、人間の自然であるようだ。本当の苦労人は、苦労していることすら人に悟られぬ。なぜならその人は幸福であるに違いないから。したがってたとえ大御所扱いされることがあるにせよ、決してそ
う阿ってくる人間を同じように褒め称えたりしないし、自分がそう扱われることを嫌がるはずである。ナイチンゲールは白衣の天使だの何だの言われるのを、すごく嫌がったそうである。そして彼女こそはまさしく六十の手習い、死んでも手習いの人間であった。彼女の真の功績は、看護婦として体を張って働いたその二年間ではなく、むしろぶっ倒れて体が使えなくなってからの、何十年間の、看護全般への知的
な貢献であるそうである。ぶっ倒れたそこからが彼女の人生の本番であった。教養があったからそんなことができたのである。そして教養というのは、見かけ上の苦労、すなわち体
を張って必死に働くということからは直接には出てこない。むしろそんな表面上には現れないところ、日常の、米の飯を食うような、地道な、精神的修養によってのみ得られる。例
えばナイチンゲールには大変な学があった。かといって日常の体を使った勤めを怠るのでもない。これらは一つの円環として相補うような働きをなしていたのであろう。

とにかく私は、なんだか偉そうな成功者ではなく、むしろ六十の手習いの、真の苦労人を見習いたいと思う。哲学者では西田幾多郎がまさにそれであった。晩年を見れば大体その人の真価がわかる。

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AUTHOR: settandono
TITLE: 尖端力についてのメモ BASENAME: 2019/08/22/064614
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DATE: 08/22/2019 06:46:14
CATEGORY: アイデアノート CATEGORY: 「形」の認識論

          • BODY:

大きい事柄ほど、小さくなる。私は部屋を直接見ているが、宇宙は、文字とか概念によって、尖端的に理解できるだけである。そして尖端的な理解は実体の上ではむしろごちゃごちゃと複雑な線を辿る。ところがそれの持つ力そのものはあくまでも尖端的であって、スケールの大きいことほどその通りである。画家の描く線の緻密さに尖端的な力が備わるとき、それによって真に自然の大きな精神が表現されることに
なる。表現ではない。存在は表現によって存在するのである。日本画家が特に線にこだわるのは、日本画においては特にそこに尖端的な力が込められているからだ。尖端的な力が備わって、そこにミニ
チュア的に表現される。場所はキャンバス上でも、私の心のタブララサでも良し。私にとってはそれらの間に本質的な違いはない。それ以外に自然の大きな姿が直接ここに「存在」
することはできない。大きなものが大きなもの「として」存在するには、まず尖端的でなければならない。尖端的であるということを抜かして大きなものが大きなものとしてあることすら不可能である。尖端的でなければ、そこにあるのはだだ一面ののっぺりであって、大きさですらない、天地未だ分かれず、である。エウレーカ、エウレーカ!

つまり大きさとは尖端力なのだ。表現の力である。尖端力が小さい
とは、実体的に小さいことである。表現を必要としないということである。しかし小さいものはその小ささに満たされているから、大きいのっぺりしたものと言えるのだ。例えば部屋は、その部屋ごとが尖端力だからこそ、小さいものである。しかしそれは部屋に飾られた風景画よりも大きい。部屋全体はまだ今この私において多少尖端力、表現力を持ち、だから全体が端的にのっぺりとここにあるわけではない。そう
した純粋のっぺりとして直接肌で触れた空間そのものが考えられる。本当は原子とはそこからくるのだ。原子は、尖端力は皆無に等しいと考えられ(古いタイプの物理学的http://d.hatena.ne.jp/keyword/%cd%a3%ca%唯物論)、だから実体と考えられる。空間が止まっていると考えられるのはこのためだ。実体としての原子は私が今肌で触れている空間の各点そのものであって(つ
まりこれはいわゆる原子のことではない)、概念としての原子はむしろ人間の思考の尖端力によるものである。だから概念としての原子は素粒子、量子、と色々と鞍替えせざるを得
ないのである。人間の思考の尖端力は進歩するものだから。

尖端力とは時間であろう。だから様々なものの様々な尖端力がここに同居している、今この私がいるここは、実
は様々な次元の時間が同居している。時間を一つと考えてしまうなら、尖端力が一つということになるから、そこに無限に尖端力の小さい一つの単位というものを定める必要がある。その一つの単位とは、実体的にはとても小さいものである。とすると、それを原子と言うのだ。この原子というのは、自然科学で研究されている原子でない。むしろ私が今ここに見て触れている空間そのものであって、直接見えている
ものが現にそれであるところのもの、つまり実体である。部屋の外にある実体は実は私にとって観念であり、実体ではなく、それだけ尖端力が大きい。しかし尖端力は、現在に直接
映り感じられる空間においてはいつでもゼロに極限まで近づく値をとる。この原子なるものの尖端力を基準にした時間が、いわゆる時間であり、これは直線的なものでしかない。つまりゼロが一に伸びようとする運動が時間であって、本当はもとから実体的に直線として伸びた時間自体というものはなく、直線的時間とは、現在が現在へと突き破られるそこにしかない。それは点であって直線であってまた渦巻いている。空間というものが一体どう考えられるのか。ここからすると空間は無でしかないのではないか。空間は三次元ですらないのである。三とは、原子と尖端力と時間との「三つ」を捉えた物だと思う。原子が「横」、時間が「縦」、尖端力が
「結び」、であろうか。空間が無だとすると、空間は本当は「場所」であって、そこに無限次元を包むものである。空間が三次元と考えられるのは、今言った原子の尖端力を唯一の尖端力と見たときに人工的に設定されるものであって、本来の「場所」をものすごく切り詰めて限定したものだ。尖端力を唯一と見ることは時間を唯一と見ることであり、始めから時間を唯一と見なければ、もとから無限に複雑なズレにズレた時間と時間とが交錯する有様となり、真に確かなものはそこには「現在」しかない。その現在においては観念と実在との区別がない。しかし時間が、したがって尖端力が唯一であると人為的に設定されたならば、本当は複雑な尖端力はここ
にいくらでも作用しているのに、それはあたかも非実在的なものでしかないと考えられる。実在的な作用は、あくまでも物理的な「力」のみと考えられる。人間の考えること、精神的な力そのもの、その他物理的力の概念をはみ出す一切の力は「観念的なもの」として、その実在性の一切を剥奪される。ところが実際に複雑多様な尖端力はここに同居しているのである。我々は本当は時間の内には住んでいない。時間をただ見て、その内に入り込んで、
自分で楽しむために複雑な時間を忘れているだけなのである。

唯一の尖端力というのを基準に作った時間とは直線であるが、実際には時間とは形であるから、実は我々の
目の前にある豊かな形それぞれがそれぞれにおける独自の時間である。今直接見えている平面だけが直接の直線的時間であり尖端力極限までゼロに近しであるが、見えている物はそ
れ自身奥行きを持ち独特の構造を持った一つの「物」、自己同一と考えられている。それがすでに尖端力を持つことの証拠である。現象学で言う志向作用とは尖端力的ということではなかろうか。そして尖端力が大きければ大きいほど、時間も複雑に屈折している。それは原子(ここでは空間の各点)を基準にした実体的な時間の内では小さくぐちゃぐちゃに歪んだものとして現れる。その極我々の精神の空間の中でビュンビュン動き回る概念と概念に至る。それの本質そのものは彼方にあるのだ。

もう一度言うと、様々な尖端力が同居できるような、一つの鈍い尖端力を原子と言う。原
子を粒子的に考えるのは、むしろ人間の思考の尖端力によってそうなるのではないかと思う。原子が原子自身であるままでは、そこには尖端的な動きはなく、原子はただのっぺりと
だらけているだけであるが、尖端力鋭き人間の思考が見たならば、これを「宇宙」の中のごく微細な部分として始めから随分尖端的に理解してしまうので、原子は何だか小さい粒だということになるのである。しかし原子には大きさはないのである。原子が小さくなるのは、より尖端力の強いものとの対比によってであり、例えば人間の思考との対比によって初めて原子は小さくなるのである。

それで人間が己の
中途半端な尖端力を実体化して、そこで勝手に実体的時空なるものを編み出してしまったので、それよりも本当の意味で広いもの、すなわち精神の内的宇宙というものが、ただ単に
人間の実体的な身体の内部の脳みその活動という風に考えられてしまった。しかし精神の内的宇宙とは、人間のごく表面的な思考(すなわちこれが実体的時空の尖端力となるものだが)よりもずっと尖端力の大きいものであって、だから尖端的という意味ではなるほど人間身体の内部にそれは存在するものと考えられるのだが、今私がここで何度も言っているように、尖端力が強いほど、本当は実体的にも大きくなるのだ。
だから精神の内的宇宙は、ユングの言う集合的無意識の概 念などを俟つまでもなく、もともとずっと広いものでなければならない。




(ここで尖端力と言っているのは、表現力と言い換えても
良いと思う。つまり直接ただ実体としてここにあるというものであればあるほど尖端力は弱いことになる。それが直接ここに存在するのでなく、その存在の仕方があくまでもhttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%a4%a5%イデア的であればあるほど尖端力は強いことになる。つまり存在の仕方に、本質と現象とで落差が大きいということが尖端力が大きいということである。直接の自
体というものを考えるとすれば、それは尖端力ゼロである。ライプニッツモナドジーとはこれを見抜いたのではないかと思う。)

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AUTHOR: settandono
TITLE: 「重ね合わせ」の認識論の試み (3) 芸術について BASENAME: 2019/08/21/052533
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DATE: 08/21/2019 05:25:33
CATEGORY: 「形」の認識論 CATEGORY: 哲学体系(笑)への企図

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(2)からの続き。



芸術と学問

これまでは抽象的な一般論に過ぎなかったが、ここからはこれまで得られた構図に従って、これをもう少し具体的に論じてみようと思う。そのために私は試みに芸術と学問とについて考えてみたい。

詳しくは(1)の議論(2)の議論 とを参照していただきたいが、もう一度基本的構図を確認すると、

第一に、全ての認識は「私のこの身体」 の浮き出とあちら側の浮き出とが結婚して 成り立つのだ、ということ。これは日常的なごく卑近な認識 から、高度な精神的内容の認識に至るまで、全てにおいて考 えられることであり、したがって「私の身体」とは我々が普 通に考えているよりもずっと深いものとして理解される必要 がある。

したがって第二に、複数の対象が同時に一 つのところに掴まれる、ということは「私の身体」自身が 「多数的」なものだというところから考えられねばならない ということ(ここで言う「身体」が無限に深さを持つものであ ることに注意する必要がある)。

第三に、身体がロ ゴス的であるとは、同時に感覚がロゴス的であるということ であり、「五感」と言われるものも根本的には感覚そのもの のロゴスから来たものと考えられる。


こういうわけであるから、私はいま、この「感覚」とい うものに注目して、そこから我々の感覚を通じて作られまた 感得されるものであるところの「芸術」、のみならず「学 問」についても一通り論じてみたいと思うのである。倫理に ついては今論じようとは思わないが、やはりこれもまたここ での感覚論から考えて行けるものと思われる。