山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

精神科の先生に読んでもらいました。

以下書くことは、私が倫理的に誤っているのかもしれないが、率直な意見とともに私の症状について書き記してみたものである。





ニュースをみて「すすり泣き」しなかったことで責められる。このニュースとは、悲惨な事故に関するものである。

死ね、いい加減にしろ、あり得ない等の声が聞こえる。
冷静に考えると、何を怒っているのかまるでわからない(そう思うのは間違っていることなんでしょうか?)。何を怒っているのかわからないのだが、延々と、今でも、責められ続けている。私が弁解をすると、お前が全部悪いと言われ、謝れと言われる。特にこの「謝れ」にこだわりがあるようで、この謝るという形式を第一にしているようである。謝らない限り、ずっと、胸のあたりから刺すように、「謝れ」、「お前が全部悪い」等の言葉を発する。常に迫ってくる。こうしているなかで、私が自然に、何かやりたいことについて思ったり何かしら希望を持てる空想にふけろうとしたりすると、「あり得ない」「いい加減にしろ」(確かそのような感じ)等の声が胸を刺し、思考に干渉し、こういった希望的なあり方を「消し去ろう」としてくる。

あるいは日常の「掟未満」について、これを掟化することによって責められる。なんでこの次もその通りにしなかったのか、と。私は、そのようなこと一々について、このようなことはこうする、と確かに決めたわけではないのに、彼らは、そうと決めたのだと主張して来て、その上で、次の同じことをする機会に、同じようにしなかったことを責める。いい加減にしろ、等。ちょっと一般化した書き方すぎて、うまく伝えることができない。具体的にどういう例があるかは、うまく思い出せない。とにかく、日常の掟未満のことがら、一応習慣としてそのようなことをやっているようないないようなことがらに関することである。

彼らの言う通りにしなければ、つまりその彼らが勝手に決めた「掟」を実行しなければ、いろんな行為につけて「君はこれでいい」などと言って、私の行為を歪ませてくる。つまり、私が思っている通りのことは、「そんなことに過ぎない」と主張しているのである。私が「それ」をしなかったそのことは、このような「歪み」と等価であると、彼らは言いたいのであるが、私からすると、言いがかりもいいところである。


文章を書くとき、あるいは話すとき、異様なイライラ感、昂る感じにおそわれることがある。中から思考を操作しようとする働きが内的感覚によって感じられる。少し書き詰まったりすると、それを「推す」声が聞こえてきたり、そういう推しの感覚、悪い楽観の感覚が私の心の中に広がってきたりする。悪い楽観というのは、この中の人たちにとってということであり、彼らは私が無能力であることを喜ぶ存在である。


こういったことについて私が反論すると、論に対して粗探しをしてくる。これは私の中に古代ギリシャ人として現れている人格に多いことである。日常のいろんなことに、この論、を結びつけてきて、だからお前が間違っている、と主張してくる。そして「謝れ」と言ってくる。この謝れ、というのには、さきほども書いたが、この形式にこだわりがあるようで、それをしなければ、いつまでも、お前が悪い、お前が悪い、と迫ってくる。お前が悪い、と言うことが多いのは、私が内的に把握しているところの守護霊である(古代ギリシャ人も多いが)。こういう霊などという用語を使うのはどうかとも思うが、私の中ではそういうことになっているので、仕方ない。




以上は、私の内的状態のほんの一部であり、書ききれなかったこと、書いたのに本当に起こっていることをうまく表現出来ていなかったことが多い。

一番の問題は、自然なやる気、計画する思考活動が奪われがちであるという点であり、また、私に聞こえる「死ね」等の幻聴は、ただ聞こえるということに問題があるのではなく、そのような声の聞こえるための「具体的文脈」がある、という点であり、つまりそれは、この文脈そのものに寄り添って問題を解決しなければならないということである。自然なやる気は、この文脈に圧っせられることによって途絶えることが多いように思う。例えば、さきほど書いたような件について謝っていないから、といった理由で。さきほど書いた件と、今のやる気を比べてみて、前者を無視するのは非道徳的である、という彼らの認定が介入してくるために、自然な「やりたいこと」が禁止されるということが起こってくる。わたしの希望文脈は常にこの否定文脈に覆われ触れられた形で存在しているため、希望文脈には制約が大きい。自然な感情が自然な形で湧き起こることが拒否されているようでもある。


いい加減にしろ、等の声は、しかし文脈を抜きにしても、ものすごくドスの効いた感じで私の胸に迫ってくる。これに文脈が付いているのであるから、私がこの文脈を無視し、幻聴の自然消滅をはかろうとすると、余計に責める声がひどくなってくる。それでもスルーするスキルは大事だとも思う。無視しても迫ってくるが、反論しても粗探しされて結局より一層迫ってくることになる。薬で寝られるとき、作業に集中しているときが、精神の「凪」の状態となる。それはひとえにありがたい。


もしかしたら、幻聴が正しいことを言っているときがあるかもしれない。この点も無視はできない。ただし、思考奪取と言われる作用は確実にある。その結果として私の冷静な思考力を奪う働きがある。記憶力は、そのためか、かなり低下しており、自分で自分の言っていること書いていることが理解し難いときが多い。



私の症状はきっと比較的ましな方なのだと思われ、幻聴がその人の精神により強く働きかけているような場合、そもそも冷静に何かを考えたいと欲する心の余裕すらなくなってくるものかもしれない。