山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

中の人の、非常にいい、という声は、私が私自身の筆記等に納得していない点がありかけたときなどに聞かれる。だからそれは、文字通り、いい、のではない。私が駄目になればなるほど、いい、のであって、それは私にとって有益だからではない。

何かを書こうとして、その何か、がわからなくなることがよくある。それは今、まさにこの時がそうである。「何かを書こうとして」のあとには、本当は別の文があるはずであったのだが、中の人の想念妨害工作によって、それが瞬時にわからなくなってしまった。このように、その類のことが私にはとても多い。これは統合失調症で言う思考奪取にあたるのだが、と、ここでまた続きの文がわからなくなってしまった。おそらくは守護霊が作用してこんなことになっているのであろうと思われる。思考奪取の生きた現場が、今これを書いているまさにこの時であり、私はそのことを伝えたい。思考奪取の作用は、特にここ最近ひどいものになってしまって、文章を書くときなどは、だいたい次の二、三フレーズあたりを思い浮かべながら書いてゆくものだろうが、それが極めてしにくい状態になっている。あるいは不可能であることが多い。書こうとする内容をあらかじめ思い浮かべてあったのに、文がそこに辿り着こうとすると、瞬時にそれがわからなくなり、思考が振り出しに戻る。仕方ないからその妨害行為そのものについて書くしかなくなってくるのである。

今ここで本当に書きたかったことを思い出したい。思考奪取というのは、私の場合、その行為者とその目的とが何となくわかっている。要するに私に正常な批判の回路があること自体が彼らにとって都合が悪いのであり、そのために、想念が出かけてきたそこ、私の本音であり主張すべきものであるそこを捉えて、無理やり消し去ってしまうのである。

ここで、なぜか「非常にいい」と言われる。もちろん実際に、いい、わけではない。私は一応書きたいことが書けた。それなのにこうした評価をもらうというのは、その真意は一体何なのであろうか。負け惜しみと解するほかはない。余裕をよそおっているのであろう。

なんで私の思考は奪取されるのか。それは彼らに都合が悪いからである。答えは決まっている。だがあまりにあまりである。一体何でなのだろうか。神が私に与える思考力、集中持続力というものはこのようなもので、それはある他者のわがままにとって都合の良いものである、そういうものなのだろうか。