山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

「現在しかない」のではなく、「過去」は実在する。「過去」はかえって「現在しかない」ことによって存在する。

過去という時はあるのではないか。しかしそれは過去自身によってではなく、現在における「概念」において存在することによって、かえって現在と断絶したものとして実在することができるのである。過去が単なる過去自身によって過去という実在であることはできない。かといってそれは現在の内に現在に従属するものとしてあるのではない。「概念」という矛盾的自己同一において、現在によって、しかも現在と絶対に分断した実在性が与えられるのである。だから、過去とは真の時であり、神ですらこれを超えて単なる現在とすることはできない。変更可能な過去とは未だ単なる「具体的内容」なのであり、真の実在的過去ではない。そのような過去は、現在という空間に従属したものとして存在する。しかし絶対過去を定義づけるのは、今ここにおける我における経験という事実のみである。しかし経験というあり方、例えば純粋経験に従属するものとして過去はあるのではなく、むしろこれによって過去は過去として、絶対に現在と分断されたものとして実在することができるのである。

我々の普通に認識する「時」というものは、パラレルワールド等の考えより、遡ったり異時空移転などが可能なものと考えられるが、しかし実際に、この秩序の内部においての常識においては、そのようなことは不可能なものと考えられ、絶対時間というものが考えられる。それは本当のところ事実でないにもかかわらずも何により可能なのかと言うと、現在における過去の「概念」がそうさせているのである。現在というものにおいて「概念」が、実際には具体的内容としてあり可逆的な「過去」というものを、不可逆的なものとして定義しているのである。「概念」は、実在にそれを覆う網を与えているものと考えられるのではないか。概念とはそれ自身において概念であるのに、しかも具体的内容を持つ、矛盾的自己同一的なものとしてある。わかりやすく言えば、概念とは、あるレベルにまで落とされれば、「具体的内容」すなわち非概念としての自己を持つ。しかしこの落とされたレベルのそれが概念視されることにおいて、すなわち真の時が忘却されることによって、我々は我々自身の普段生活するパラレルワールドを所有し、潜在的には他パラレルワールドと時空を超えた関係を保ちながら、顕在意識的には一つの歴史的空間を、各々が保持することができるのである。