山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

誤り多き無意識

無意識は結構間違っているものらしい。それは習慣等がそこに含まれる場である。習慣の中には誤ったものも多かろうと思う。無意識に間違いが多いからこそ、そこをケアしてゆくアプローチを持つものとしての精神医学というものも存在する。しかしだからと言って無意識が誤った根底に立っているということでもないはずである。意識は、ともかくこの無意識に左右されて従属的に働き、これを現界に映し出すものであるから、無意識の誤りも、叡智的根底も、平等に映し出してゆく可能性を持っていると言えるのだろう。しかし選択する権利を持つものもまた意識である。意識はただ従属的なのではない、内容において従属的なのであり、選択行為そのものにおいては自由なのである。ただその選択行為そのものもまた無意識に大いに左右される。結局は、自由「であってしまった」そこ、選択における最終責任を直接負ったそここそが、意識と言えるのだろう。だから意識というものの自由さもまた神秘的なものである。無意識に左右されつつも自由であるのが意識である。

では意識は無意識に対して作用できるのか。それは習慣を作り出すことによって可能であると言えよう。意識の自主性は選択行為のうちにあるのだから、真実と信じるある種の選択を繰り返し、無意識のうちにそれを刻印してゆくという作業が可能である。無意識は意識の習慣によって形作られるという側面も多く持つであろう。

信頼できない無意識は、おそらく無意識を含んだ意識の全体性から切り離されてあるものだろう。そして意識は、その信頼できない無意識より来る意識的内容を全体的なものと誤診しこれを選択することができる。信頼できないはずのものが、総体的なものに結びついていると捉えられてしまうのは、誤った知識の植え付けによってそうなる。

内容において無意識に対して従属的ならば、意識はどのように、外界のものを認識するのであろうか。認識するのは意識であり、そこにも選択行為というものが介在している。すると、認識行為のうちには、その意識が内容的に無意識によって覆い尽くされるプロセスが含まれていなければならない。無意識のうちにある認識が意識的認識行為の前の段階に存在していなければならない。無意識こそが外界と「はじめに」触れ合うものなのである。意識を通さねば、認識は認識ともならない。そこで無意識による認識は、意識によって実在的に選択される必要がある。選択「されてしまった」結果こそが、実際の認識として、世界のうちに、全世界に同格のものとしての資格を持ったものである。



ところで、私に作用してくる私の中の霊人たちは、私の無意識の働きと言ってよいものなのだろうか。そうであるにしてはそれらはあまりに客体的であり、主観のうち深くに存在する無意識的内容とはとても言えないものである。私は彼らの働きに誤りが多いことを認識する。創造的な場所へ連れて行ってくれないことを認識する。真に創造的なものは、叡智的な認識として、総体性のうちに認識が一致しなければならない。彼らは、私の心のうちにあるものとして、本来もっと観念的な、要するにイメージ的なもの、もしくは概念的なものである必要があり、したがってここまで思念としての肉感があるような状態は不自然なものである。そしてそうだからこそ、これは無意識における思考活動などではなく、テレパシーによる他存在との交流と言えるものなのである。だが、彼らは、実際のところ、交流というよりも、無意識の代理のような、干渉行為を行い作用してくる。彼らは私の無意識という藁によって狡くも守られたいのであり、彼らの意思によるものでしかないものをあたかもこの私の意思であるかのように詐称したいのである。 

彼らには、自分勝手なルールがある。筆記に関して、私が文章を書く上で、少し書き詰まったところで、自信のないなかである単語をポンと書いてしまったときに、「オマンコ」だと私をみなしてくる、というようなルールがある。これは言葉ではうまく伝えられないが、感触としてはシンプルなものである。こうした、文章とは何も関係ない干渉行為があるために、私は筆記における自由を常に侵害されている状態にある。実際、結局は、関係のないことを最初は書いていても、このように彼らのことについて書くような有様となっている。無意識には誤りが多い。彼らを平等に受け入れているのも私の無意識であり、だから私は意識による選択の習慣の工夫によって、ここを抜け出さなければならない。 


元の問題に戻ろう。無意識的認識が、意識的認識の前段階にあると言った。この無意識的認識とは一体どのようなものであろうか。まず、同じ「意識的選択(ないし現象)」と言っても、私の積極的行為における選択と、受動的な認識行為における選択とは、区別されねばならないと思う。無意識の誤りを拾いやすいのは、この積極的行為におけることと考えると考えやすいが、問題は、それが受動的認識についても言えるのかどうかということである。一つの解決法は、受動的認識行為を、そのまま主体的行為の一種とみなすことである。むろん実際にはよく知られる通り、受動的認識のうちには、さまざまなバイアスが作用してきて、我々の認識というものは観念的に考えられるような受動的なものではないと言える。ただそれはどのような意味において受動的ではなく、またどこまでが真に受動的と言えるのかという問題につながってくる。普通に客体的に物があり、主体どうしが場を共有するときには、この物への「これはある物だ」という認識は、各主体にとって受動的であって共通的なものだと言える。そしてこのレベルの認識は、相互に「そういう認識」として確かめ合うことができる。果たしてこの認識は、積極的に「選択」されたものなのだろうか。このようなレベルの認識の場合、認識には選択の余地がない。ただし、その同じものを「どのように」切り取るのかという段階に入れば、そこに相互の主観的な違いが現れる。どのように切り取るか、というのは、「どういう行為背景において」これを見るかということである。しかし行為背景として括ってしまえたことからわかるように、このようにして考えられた積極的行為の場所も、ひとまず主体相互にとって普遍的であり、そこでは未だ真に個性的なものを見出すことはできない。それらは、何々の行為、という風に限定することのできるもの、ある枠にはまったものである。とすると、行為背景のもとに物を切り取ってみる見方は、受動的なものだとも言えるが、それは単に諸物が諸物であることを離れて積極的なものであるということがまた言える。諸物が諸物としてあるというあり方は、一体どのような一つの確固背景においてあるのだろうか。それはおおよそ常識的に考えられる、諸物への社会的認識習慣の環世界と考えられる。それが科学の対象となる認識行為であると考えられる。そして領域としては実は一つなのに、この常識的環世界を境目として、それより「内的」なものの方向が、たとえあるレベルからみてそれも単に普遍的なものだったとしても、それは個人の無意識として見られるのである。より個性的になるとは、より深い普遍へと至る道である。深い普遍は様々な個性を受け入れる強力なバネのような力を持っている。個性とは大きな一つを表現することである。ところで、その道のうちのある段階において、誤りの多い無意識の領域が存在するのである。そこに普遍性と銘打たれてあるものは、実は偽物なのである。無意識と意識との真の一体性とは一体どこから来るものなのだろうか。その出所は単なる叡智的意識なのだろうか。いや真に叡智的なものは、単にそれだけとして存在しない、それは行為において意識と無意識との総体的一致のもとにあらねばならない。

認識において受動的と言えるのは、社会的認識習慣における環世界の内におけるそれだと言ったが、ここで社会的という言葉を使うのには、生物的というレベルとの区別というものが考えられる。社会的ということには、生物的あり方では考えられない、抽象的な価値意識的ありかたがそこに含まれてくる。では生物的あり方における価値とはどんなものであるか。それはおそらく種の保存に直接結びつき、紐付けられたものであるに違いない。しかし人間は価値を能動的に所有する。しかしその価値意識というものは、所有されたものといっても、実はかなりの程度社会的に、いつのまにか刷り込まれるものである。だから社会もまた一種の生物的世界として、社会的種の自己保存的な様相を呈するのである。しかし真の社会と、単なる種の保存的社会すなわち停滞した社会との違いを考えることができる。前者は、要素である我々が各々創造的に世界へ作用してゆく社会である。真に価値を能動的に所有することができるのは、創造的あり方においてでなければならない。創造的であるとは、はみ出す「一」を自己のうちに掴むことである。種は、集団的なものではなく、一つの孤独な「あい対するもの」となる。社会が生物から区別されるわけは、本来、社会と真社会が区別されるわけと同じなのである。人間は、そのことを忘れている。

受動的認識は、停滞した社会における認識を思わせるが、実際創造的社会においても一面停滞的側面がなければならない。社会とは単にそれ自身で存在するのでなく、生物的あり方に前段階づけられた形で存在するのである。停滞した社会とは、価値認識をある特殊的局面の一面に固定しようとするところから生まれるものであり、創造的社会における停滞面と創造面が極端に近接するところにそれはできてくるのではないか。実際この近接は偽りの近接であり、一つの意志によって有機づけられた真の一体性ではない。したがって、この歪みを正当化するための、偽りのエネルギーがこれを固めようとする必要がある。


以上の記述においては、用語法が混乱している。そもそも受動的認識とは何なのか。先ほど例に挙げた、目の前にあるものをそうであると判断するような場面と、「停滞した社会における認識」といったこととは、どのように関連していると言えるのであろうか。停滞的社会においては、認識はみな受動的になるのかと言えば、そういうことではない。それは高度に誤った無意識に基礎付けられて行われる。そこで受動的というのは、一応能動面にくるところの価値意識のあり方が実は高度に刷り込み的だということから来るのである。したがって、そこでは意志というものが歪められた価値意識の中に閉じ込められ、誤った全体性を表現することになる。それは先に停滞面と創造面との偽りの近接と呼んだ通りである。通常の物の認識というものは、基本的に社会的習慣的なものその環世界によって成り立つものと考えられる。真の社会においても停滞した社会においても通用する、一応の常識的環世界としてそれは成り立つものと考えられる。

私は、ひとまず、受動的認識というものを、一種の積極的行為と捉えることによって、受動的認識が誤った無意識による影響を受けるのだということを述べようとした。そしてそのことは、受動的認識が様々なバイアスのかかった状態で行われることと結びつくと考えた。しかしそのなかにも実際、単に客体的と言える認識、共有できる認識があることについても確認した。問題はそこから発展し、無意識というものの存在の意義についての議論に、いまや至ろうとしている。なぜなら、社会というもののあり方と、無意識というもの(それは誤りを多く含んだものである)とが、密接な関わりを持ったものとして考えられねばならないことが、上に述べたことから、徐々にわかってきたからである。すなわち問題は、人間という存在の総体性がいかにあるか、という点に存するからである。





そこで、ここで議論の方向を変えることにしよう。それは以下の通りである。

無意識と意識がそもそも区別されるのはなぜかという視点がここで必要になる。簡単に答えを言えば、時間的空間的幅を持たせた環境作りの緩衝帯の主観面として意識と無意識の構造が考えられるのではないかと思う。意識と無意識とが構造的に一体であることは、我々のおいてある環境が一つの全体性であることと一つなのではないかと考えたのである。

ここで、この問題を考えるためのとっかかりとして、「一つの意志とその自己展開があるだけの、一面直観」というモデルが考えられる。それは意識と無意識の分岐以前である。それ自体が、ある分離をしかも同一的にはらんでいる。ここにおいて認識面と作動面が分離すること自体が、意識と無意識の区別の起源であるのではないか。この分離が進行し構造化するなかで、この区別は成り立ってきたのである。無意識は作動する「側」の枠として位置付けられるが、直接のその時々の作動とは区別される。だが作動はおそらく必ず無意識の許諾を経ている。このような領域が精神の環境を作り出すに至り、認識面である意識と作動領域である無意識という構造が出来上がるに至ったと考えられるのではなかろうか。ではそれと一つである物理的基盤というものはいかに成立するかと言うと、おそらく意識と無意識との全体性が一つの作動面のような働きをなすところにおいて、これに対立する認識面のような形でそれは成り立ってきたのではないかと思われる*1。しかしこの一回限りの身体の意識というものの意識としての単なる自己展開から、このような複雑な構造を持つ、環境-精神というあり方が生じてくるものとは思われない。しかし、世界というものが、そして意識というものが、それ自体根底的には自己自身から出てきたもの、自己自身から出来上がってきたものでなければならない以上、上の図式は根底的には成り立っていなければならない。この一回こっきりの人生における意識とは、真の実在的意識とは端的に言えないのでなければならない。意識は根底的には身体の創造者でもあるのでなければならない。我々はどのような資格において身体の創造者であることができるのであろうか。肉の親よりいただいたこの身体というものが、一体どんな資格で、「この私」が作り出したものだと言うことができようか。

抜け道的思考ではあるが、身体というものを類として捉え、この類に「働きかけた」者として、自己の意識を理解すれば、私がこの身体の創造者であるとも言うことができる。集合的なものを集合的なレベルで作ったという理解の仕方である。「私」の意識を、一旦集合的レベルに帰さしめるのである。

類と言っても、広い類もあれば、狭い類もある。類をどんどん個性的な方向へと絞ってゆくことができる。ここでは詳論できないが、そのことは前世とかカルマとか言われるもの(それは「類魂」に刻印される)と根底的に通じていることがらである。私は確かにヴィヴィッドな意識を一つの全体性として持ち合わせていたことがある。しかし、この身体に「宿る」ことによって、その鮮明さを失うことになる。そこに、個人的そして類魂的無意識という言わば内的環境が彼に覆い被さることになる。「宿る」ことに、一つの創造的意義を見出すならば、それは無意識と意識の叡智的結合という目的が考えられる。


こうして考えてみると、この身体に宿ることというのは、普遍的精神が道具を手に入れることに近いのではないかと思われる。ただし普遍的精神といっても、それと全く同じ格を持ちつつも個性的である存在によってそれが表現されねばならない。普遍的なものが真に普遍的なのは、底が知れないからである。どんな大なる普遍的個も自己のうちに呑み込み尽くすものであるからこそ、それは真に普遍的なのである。そしてそこにこそ真の普遍的無意識というものが存在するのである。





なんだかこのあたりで、書くことが、考えることが、とても面倒になってきた。後で読み返してまた書くべきことが出てきたら、加筆しようと思う。今はとりあえず、これでやめておく。


以下メモ:

今直接なるものが、かえって過去や未来にあるものの起源であるということができる。直接行為における作動面と直観面の区別が、意識と無意識の区別の起源と言ってよいと思う。この直接行為における両面の区別がなければ、我々は意識と無意識とを区別することもできないのではないか。(これは自信ない)

*1:これについては後日の詳論が必要となる。