山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

常識的な読解の能力がない。本当に文章が読めなくなった

なぜこんな環境が与えられた?頭が全然働かず、文字がまともに読めない。

そしてそういう形で自己主張してくる存在がいる。私の頭が使えないことが好都合なのである。いいね、って来たよ今。それで哲学あげて、だって。

彼らは私に何を求めているのか。ただ構ってもらいたいのである。幼稚な者を相手にはしていられない。しかし実際に文字が読めないことは事実であるから、この問題には向き合わねばならない。幼稚な者は相手にしてられないが、実際の支障に対しては対処しなければならない。


私のやっているブログを、彼らの言う通り哲学のブログとみなすことができるならば、私の書いていることは、論理的に正しいものであることになる。彼らが、良い、と評価することはできないはずなのである。なぜなら、彼らは、私が頭の悪くなる方向を激推ししてくるからである。そしてそういう形で構われることが必要だからである。私の言うことが論理的であるのならば、彼らが入ってくる余地はない。そう、実際これは哲学ブログなどではないのである。彼らが積極的に介入してくるということは、始めから哲学としての意図は存在し得ないということである。彼らが排除されるところにのみ、私の哲学は存在することができる。こうして言っても、彼らは、非常に良い、などと言ってくる。論理的に私が無能力であるということを喜んでいるのであるが、無能力と見えるのは、ただそう見えるというだけであり、実質はそうではない。彼らはそのことが理解できていない。

何を言ってるのか、自分でわからなくなっている。書くことは、ただの散歩のような運動であることになる。散歩ならば、気楽なものである。

彼らは、私がこのように書くことに対して、大して考えがないもののように考えているのであるが、私は私なりに考えている。それこそ、これを哲学ブログとして昇華できるほどに、彼らを排除し、冷静に事実を見極めてゆく必要がある。彼らは私にとっての人生最大の反面教師である。

こんなこと、私が普通のことをする能力を奪われることについての嘆きであれば、こんな風にいくらでも書いてゆくことができる。私の論理的能力は、ただこの散歩のうちにのみ作動し出すことができるようでもある。普通の文章を普通に読めるまでに脳の状態が回復してほしい。思考が散漫になるというのは、確か統合失調症陰性症状のうちに含まれていたかと思うが、私はこの状態を克服したい。これは未来の自分へのエールでもある。もっとも後で読み直して、そこに意味のあることは書いているだろうか。その点に自信がない。まあくだらない日記でもある。君はこれで良い、といつもの声が聞こえる。それほどまでに私は無能力であるのか。否、彼らが私の自由と能力を侵害しているのである。彼らの都合の良いようにさせないように、私はこうして書くことで思考力を回復させていかねばならなくもあるのである。