山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

いかに思考の檻に閉じ込めるかということが、私に取り憑いているかのものの命題である。直観止めて、などの言葉はそういうことを意味する。思考をやめれば、より広いところから創造的なエネルギーを得られるのだろうか。そうではなく、彼らは、思考を止めさせることによって、より小さい思考の枠に、私をはめようとしているだけであり、それは思考の超克などというものではない。思考をただ単に引き算するだけであり、残るのは矮小化された、いかにも拙い思考力だけなのである。引き算された「しろ」に入ってくるエネルギーは、より高次の思考あるいは思考を超克した高次的バランスエネルギーではなく、拙い思考力のみ持ち合わせる存在特有の原始的な野蛮なエネルギーであり、彼らは奇形的芸術に開き直ることにおいてしか、このエネルギーの正当化の術を知らない。私は、わざわざ使わないでもいいエネルギーをかけることによって、どうにか力によって、この思考の檻から這い出なければならない。

私の思考は、進むごとに、野蛮な彼らのエネルギーによって、めっためたに奪われていく。統合失調症で言う思考奪取というのがこれにあたる。私の思考は、奪われてゆきつつあるものを、常に力によって取り戻してゆくという過程を経ながら進んで行かねばならない。これも、本当は使う必要のないエネルギーなのである。私は、こんなことにではなく、もっと創造的な、意義のあることに、思考のエネルギーを使いたい。周辺環境は、それを容易には許さない。私は半野獣状態を内に抱えながら、精神生活を進行させてゆかねばならない。 

私が少し書き詰まれば、美しい、などと言ってくる。そんな輩である。もっとも、中の人たちは、「中の人」と、ひとくくりにできない場合も多く、様々な局面への反応は存在によって個別に異なってくることも多い。だが、おおよその傾向は、私に対しては、一致しているのではないかと思われる。音楽から哲学に至るまで様々な干渉意識体がいるのであるが、私にとって、思考の不自由を生むという点においては、彼らは軌を一にしていると言ってよい。もっとも私の思考の自由に寄与する存在は、こんなところに現れてこないものであるから、実際に創造的意義をなしているものは、私に対して「干渉エネルギー」として意識されないというだけであろう。彼らが軌を一にしているのは、軌を一にしていると言うよりは、彼らはこういう場合に限って現れてくるからであり、「こういう場合」という局面が私にとって大きな一つの傾向として意識されているために、彼らが私にとってひとくくりの全体性をなしているように見えるということなのだろう。このあたりの微妙な事情については、うまく書けないが、私が「私への特有の干渉傾向」を大きく意識するあまり、こういう一つの全体性が私に覆い被さっているかのように見えるだけなのだろう。実際には、きっと、そんなところとは次元の違う働き、私にそれとわからないような働きがあるに違いなく、彼らを「全体性」のうちに入れようとするならば、私が置かれた環境への理解の仕方も自ずから異なってくるように思われる。

あとは、「肝心のこと」を書こうとする瞬間に、その特定の語句があらかじめ頭に思い浮かんでありかけていたにもかかわらず、頭の中から不自然に奪われる、という現象が頻繁に起こる。これが要するに思考奪取というものである。そういうことについても、私はどうにか力を使って思い出しながら書いていかねばならないのである。例えば、前段落の「私への特有の干渉傾向」の「干渉傾向」というところへは、本当は別のあるしっくり来る言葉が当てはまるはずであったのだが、思考奪取によってそれがわからなくなってしまった。

私をいかに思考の檻に閉じ込めておくかという命題に関わるあらゆるエネルギーが、私から去ってほしいと思う。私はそういった一つのムーヴメントに対して、どのように対処していけばいいであろうか。口もききたくもないが、やはり対話してゆくほかないのであろう。彼らの行状について一つ一つ書き記し、断罪してゆくことが必要である。