山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

私は日々、中の人たちに責められているが、漠然と責められるのではなく、問題となっているある種の事柄どもを巡って責められる。ニュースを見流すことの問題など、題はだいたい決まっているように思う。漠然と死ね、と言われるのではない。文章を書くときの書き方などに文句を付けてくる、というような仕方で、責めは来る。漠然と死ね、と言われ続けるのであればどれほど楽であったことか。今責められ言われていることは、一つの文章に「同じことを何度も言うこと」であるが、言いがかりもいいところである。このように言いがかりもいいところであるような風に、いつも責められる。漠然とではなく、ある種の問題について、なのである。私はもっと、漠然と責められたいのである。そのような幻聴状態は、漠然とした不安感を救えばいいだけのように思われてしまう。ある種の事柄につけて責められる、という場合、問題の解決は、争点となっている問題ごとに行われねばならない。そしていつも、言いがかりもいいところなのである。

漠然と責められるだけならば、スルーし続ければよい。何か理由らしきものがあって責められている場合、その理由が虚偽のものであることを、一々証明していかねばならない。もちろんこの場合でもスルースキルは重要であろう。だがスルーしても、しつこく彼らはやってくる。それも、漠然と責めるためではなく、ある理由、らしきものがあるためである。彼らは、文章を書く行為の一々の動作にも強く干渉してくる。それら妨害などと一体となって、彼らの責め、は成り立っている。死ね、という言葉そのものを避ければよいのではなく、避けて、それからこうして書く文章のうちに逃げ込むうちにも、彼らの、理由、らしきものが作動して、干渉行為となるのである。死ね、と責められて、辛い、などというのではない。どこまで行っても、形を変えて、根本的には同じ責め、が、やってくるのである。死ね、は、文章への内的干渉に、このように、すぐ姿を変える。書きながら手がやたらに動かしにくくなったり、変に昂った感情が私に張り付いてきたりするのである。私はそれを振り切りながら、これを書いている。彼らは、私が、彼らの思う通りのことをしなかったことについて、いつまでも根に持っている。死ね、でなければ、あり得ない、などの言葉に変わったりもする。彼らの要求するある種の態度に、私が応えなければ、彼らはいつまでもそれを根に持ち、責め続ける。しかしその責めとは、具体的事柄・問題につけて、である。その問題に少しでも関連しそうな場面で、彼らの意向に言わば媚びなければ、瞬間的に、死ね、等の言葉が発せられる。

本当に、ただ単に存在が否定されるだけならば、どんなに楽か、と思えてしまう。彼らも、結局は私の存在を否定しているだけなのであるが、具体的な問題について怒っていると勘違いしているのである。憐れむべきである。彼らには、素直に、私の存在自体が、漠然としかしはっきりと受け入れられないのだということ自体を、受け入れて欲しいと思う。そして素直に、この私という場から離れていって欲しいと思う。所詮根源的価値観が異なるのであるから、そういうことは私に怒って強制的にある種の行為をさせても仕方ない。それに賛同する人たちのもとへと行くべきであり、私が文句を言われる筋合いはない。私という個人空間は、何という監視社会であることか。

時々聞こえてくる、美しい、という評価についても、私が何か良いことをしたときではなく、実際のところ私が自虐的になったときに聞かれるものである(場合がほとんどである)から、本当に私を肯定しているわけではない。そういう評価においても、彼らは、私の私による私のための私への価値観をねじ伏せているわけであるから、私は私において自治権を持つことができない。人権を我に与えたまえ。