山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

自己の同一性を生身の他者に対して保っているのは難しい。レゲエの人、古代ギリシャ人などの人格が加味されたものとしてしか、生身の私という人間はこれを表すことができないため、私の私という単なる自己同一は奥の方へ押しやられる。しかし私の私とは、現に、確かに、あるものである。しかし、レゲエ人や古代ギリシャ人の壁が、私という生身の人間における壁ともなっているので、生身の私が素直な私としてコミュニケーションすることは、ほぼ不可能である。喋るときには、クチャ、など(これはシュニトケエネルギーによる)によって妨げられ、観念もまた彼らによっていじられ、自己の思考空間における自由な自然な思考ができなくなっている。私は、「この私」として、生身の他者に接しコミュニケーションを取りたい。そう切に願っている。レゲエ人などは、こういう真摯な訴えが私より湧き起こるときにも、野次馬的な反応を起こす。野次馬的な感覚で、私の筆記の内から入り込んで、自分の都合のいいように文章そして観念の流れに作用しようとしてくる。私の私は、これを振り切りながら思考し、書くしかない。彼らには真摯さというものがない。軽薄な感覚を、自分のアイデンティティとしているようである。

無論レゲエをやっている人が、こういう人格なのだ、と言うつもりはない。ただ私のうちに「レゲエの人」として現れている存在がそういう性格なだけである。