人間自身によって与えられない「規定」が物には備わっていなければならない。人間はそれを学んで、その上で物に規定を与えるのである。物理的性質というものはまさにその例である。何か形を造るにしても、まずこの物理的性質への理解が何らかの形でなければ、それをすることができないのである。だから人間の認識から離れて存在するものは、単なる闇などではなく、具体的な物理的性質を備えたもので、かつ混沌などと一言で片付けられるものでないのでなければならない。すなわちそれは適切なアプローチによって理解してゆくことが可能なものでなければならない。ところで、このようにして、認識以前に与えられている物理的性質の基礎状態は、そもそもどのように「創られた」のであるか。
それは、どの時点かには、「認識」によって作られたと言われるべきところがなければならない。この場合の認識とは、普通の意味における認識とは異なるそれであろう。
認識自体が与えられたものだと理解すればいいのではないか。与えられた認識と、そこから転じて主体的に認識を遂行し付け加えてゆく過程とを考えればよい。認識の遂行とは表現であり、与えられた認識とは別の何ものか、とても大きい何ものかの表現の結果であると考えることができる。
この所与認識こそが、時空の形式をはじめとする我々の身体の環境条件の直覚であるのではないか。この認識は極めて非自覚的に与えられているのである。そして次に自覚されてゆくのは何かを考えるには、幼児の言語習得の過程を考えてみればよいのではないか。
しかし、そもそも認識を超えたものとして私はそうしたものを考えていると言った。この点と、今述べた理解には矛盾がある。所与認識とは無自覚的な直覚であると考えれば、もともと身体が理屈を通さずにスムーズに活動できることの説明ができる。物理的性質を物理的性質として研究するのは、人間には創造的本能が備わっているからであり、この意味でこうした研究行為には表現的意味が含まれているのである。