山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

私一人がどうでも、霊たちがよってたかって何かすれば、ここまでひどい事態を作り出すことができるのである。今文字が読みづらく、また書きにくいが、それもまた同じこと。霊たちがよってたかって何かしているがために、本来の私がここまで妨害されてしまうのである。上げて、と言われる。何が都合良いのだろう。私の本来の私というものがうまく出てこないようになっている。私はせめてそのことを書くしかない。本来有意義であるはずのものは、私から遠ざかり続ける。自然にではなく、不自然に、人工的に。

私がこうやって、そうした霊たちに抵抗する意味で書くことは、しかし単なる抵抗であることはできない。なぜなら、こう書くことのうちにも彼らは入ってくるのであり、私の「この場」が彼らの遊び場と再び化してしまうからである。だからこそ、「上げて」などと言うことができるのであり、いつのまにか、彼らの基準が、私の文章の基準であるかのように意義がすり替えられてしまう。あたかも彼らの基準でこの文章が文章としてゴーできるかのようになってしまうのである。こうして書いているさなかにも、しきりに「哲学に上げて」などと言われる。そういうことなのである。このような場合、私は救いがないような気持ちになる。私は本来単に私の基準で文章を書けばよい。そして今もそうである。当たり前のことで、わざわざそんなことは意識することもないはずのことである。

どう書いても、彼らは、「哲学に上げる」ための文章だとみなしてくるが、私はただ単に自分の思いを述べる手段として文章を書いている。彼らのくだらない要求を満たすために書いているのではないのである。