山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

荒廃しているとどんなに精神的苦痛があっても大差ない。もともと漠然と荒廃しているから、そのなかでどんなに精神的苦痛を味わったとしてももともとで、それが解決する意味などはあまり考えられない、荒廃状態の残念さが優先してしまうことになる。精神的に解決できる困った人間的問題が生まれてきても、その人が荒廃しているから、それはもともとなのである。その人の訴えが訴え通りに聞き入れられても、あくまでもそれは荒廃が自ずから織りなす灰汁の一相としてしか理解されないため、本人にとっての解決というものは他人からはどうでも良い。それで、こういう人たちは、丁重に放っておかれることにもなるのであろう。荒廃している当人にとっては、この問題の解決の底にあるのはあくまでも健康的なあり方である。荒廃していても、荒廃しているなりに、精神的にはマシになる道というものは存在しないのだろうか。

薬によって、聞こえるものを、強制的に遮断してゆくことも、一つの手であるかもしれない。精神的苦痛の物質的源泉をとにかく断つのである。当人にとっては、人間関係のほぼ全ては、その妄想状態のうちにあったかもしれない。ここでの全体的な歪みを、大きく遮断できるというのは、そういう意味では、精神的問題解決にとっての大きな前進であるに違いない。ここで大事なのは、荒廃状態それ自体がその人にとっての精神的病気であるのではなく、病気それ自体は、あくまでも日常の人間模様における様々な人間的問題の一つの相として存在するということである。精神病院でも、あたかも妄想状態等の物質的な荒廃状態が、それ自体辛いものであるかに扱われるものだが、そうでなく、そういうものとの「付き合い」における問題こそが真の問題であり、そういうものとの「付き合い」において極論当人にとってそれら妄想等が大して気にならないものとなればそれだけで病気というものはなくなり、あるのは病気につながりやすい物質的条件だけだということになる。寛解という概念があるにもかかわらず、こうした点が明確に自覚されていないようであるのは、こうした条件そのものの特殊さ異様さ気持ち悪さから他者がすぐに想像しやすいような有様から来るのであろう。寛解とはなんとなく「妄想が物理的に聞こえにくくなったような状態」を指すのではなく、あくまでも、奇形的な局面が仮に含まれようとも、「人間関係全体としてそこに折合いが付いているような状況」のことを指すのであろう。要するに一言でいえば人権が保たれていることが大事なのである。精神病院では、妄想等の知覚されにくくなった状況を、こうした人間関係的折合い(と私が呼んだもの)の一応の目安であると捉えているのではないかと考えられるのだが、ただこうした妄想状態における「人間模様」を文字通り人間模様というレベルで理解することが他者の観点からは難しい(そのためにそれらは「妄想」と呼ばれるのであるが)以上、このような概念の明瞭な自覚は少し難しいところがあるのではないかと思われる。他者と言ったときにこの言葉の意味が明確であるのも、その当人が抱えている妄想的な人間関係がやはり妄想的なものだからでもある。