山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

調和とはこういうことではないはずだが、全体から見ればこれも調和の一様式であるのだろう。その点が見定められる必要があり、それができなければ相変わらず不幸なままである。私の不幸を認めない存在に囲まれているのであるが、まずそのことが不幸である。価値観が歪んでいるように思う。その手の意識で行けば皆不幸であり、全体は総倒れとなるのではないかと思われる。つまり奉仕を第一に説いていながら結局は与えるものが単なる脅迫でしかない。この私の捉え方を利己主義だとみなすのが私を取り囲む指導霊的存在たちであり、その質の低さに目を見張らざるを得ない。

こういうコメントの一々についても歪んだ見方しかできなくて、その一々の程度の低さに呆れる。真剣に憤っているのであるが、その気にもならない。

問題の実質がどこにあるかに目がいかねば調和のどうであるかを知ることができない。それができず、利己的脅迫に逃げる道に固執することで、現在の嫌な状態が成り立つ。まずはこれを捉えることが利己主義を抜け出す道かとも思う。こういうことではない、という感覚それ自体は大事であり、全体としてはそうでない、という信仰は、この直接の感覚には劣る。信仰は信仰でしかなく、次に進むための一つの手がかりに過ぎない。

問題の実質とは、利他を自称する利己主義にあるが、こういうコメントに利己主義的各自は自分に都合良い解釈しかできないようなのである。なぜ自分自身のこととして理解できないのであろうか。やはり調和とはこういうことではないはずである。



問題を見ようとしないで、上の「信仰」のみ事実として受け入れようとする姿勢に強い違和感を感じる。問題を見ることは調和を見ることであり、調和を見ようとすることなしに調和があるという事実を受け入れることができるだろうか。彼らの態度は調和に加わることのできない負け惜しみなのである。信仰にのみ媚びようとする。私が何を言っても、信仰を利用してどうにでも都合よく解釈しようとするのである。