山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

これが取り除ければどれほど良くなるかわからない。もうちょっとはマシな人間になるだろう。因縁というものを踏まえた上でみな振舞っているはずなのに、どうしてこうなるものだろうか。

無条件の価値は、そういう意識から離れることができるものだが、その無条件のものにあまりに条件を付けすぎた場合、こういう不自然な結果として表れてくるのではないか。誰も無条件にあなたの信奉するものを信奉するのではない。人の信仰には違いがあるという基本的事実が曖昧になっているのが、私の周辺である。信仰に善悪があると信じるならば、そういう人に対しては一体どのような態度をとればよいのだろう。道徳というものが存在し得るならば、信仰に善悪があることはもはや前提なのであるが、それでは信仰の無条件の価値というものは何なのかがわからない。他人の自由を脅かさない限り、信仰は自由であるという条件が、一応は社会的に承認される条件であると考えられるが、つまり一定の道徳性があらゆる「自由な」信仰には保証されるのであるが、私の信仰(にあたる何か)はこうした価値を持たないのだと、「中の人」の内のある者は判断する。私には理解できない罪のあり方が、私のものとなっているのであるが、私には、そちらの無条件が無条件には感じられないという基本的あり方が備わってしまっている。道徳観というよりよ道徳感にズレがある。こう言うことは、単純にお互い様とは言えないものであり、このズレも、単にズレと言ってしまってはいけないような感じがある。