山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

前記事の補足的内容

本体的事実から目を背けて、別件のところに私の訴えを向かわせる。その別件とはこうやって私が「書く」こと、そういうことが該当する。だから私が真実を語っても、彼らには届かない。彼らは、私のまさにこの筆記行為によって、原理的に自分の罪を直面することから逃げることができるのである。他人の受け売りであるが、正義感に基づいた政治的意見が、結局は政治闘争という不毛なあり方の中に吸収されてしまう、というようなことと同じである。彼らは、私にこう批判されること自体はわかっているが、直接その罪に向き合わせる決定的な打撃を与えられることはできないことをわかりきった上で、こういう態度を取っている。私にとっては書けば書くだけ無駄だということになる。しかし実際に、ある程度効いてはいるのだろう。実際、彼らは私の筆記に対して強がっているだけなのが、手に取るようにわかるからである。超然を装っているだけなのである。それが、それぞれの筆記の時点に現れてくる「美しい」等の声に表れている。

守護霊らの低劣さ

守護霊等はなぜこんなにも幼稚な嘘をつき続けるのだろう。もうあとに引けないという感じか。要するに幼稚なのである。不道徳。

そう書いて「哲学にあげて」という声が聞こえるのだけど、彼らは私の書いたことを事実だと認めていることになるよ、それじゃ。であるから、そんなことは彼らの立場からは言えないはずである。こう書いてもまた「美しすぎる」という声がする。何度も言うが、それを言うなら彼らは自分のしたことが誤りであり、私がここに書いたことは事実なのだと認めることにならねばならない。それなのに、なぜこういう文章を公に上げさせようとするのだろうか。

彼らの言わんとするところは、私がこれを書くことは、私が自分の罪をさらけ出すことにるのだということであろう。しかし承認するというのはどういうことなのだろう。彼らには何か算段というものはあるのだろうか。いや、実際にはない。ただそういう態度を取ることで、私の正確な指摘から超然とした態度を取るかのように装うことができるのである。真実は全て私の書く通りであり、私はこれを書くことによって自分の罪をさらけ出すことにはならない。彼らは負け惜しみとして、こう書くことについて、強がっており、その矛盾した態度によって、つまり本質を認めないことによって、自分の自我をなんとか保っているのである。こう書いて「全て美しい」などと聞こえてきた。何が美しいのかはわからない。私の書くことを承認するからは、彼らは私の書いた彼らの罪を認めることになるはずである。それをしないで承認するなどということはできないはずである。要するに態度は矛盾しているのであり、それを見ないようにしているときだけ、その罪の事実から目をそらすことができる。書かせてそれを勧めていればそういうときだけはこの罪の事実から目を背けることができる。書けば書くほど彼らは自己の罪に向き合わなくてもよい、かのような、暫時が与えられる。真実は、彼らはただ、自己の嘘を嘘と認められないだけ、くだらない小さなメンツにこだわっているだけなのである。

私は統合失調症の患者として、彼らの、明らかに嘘に基づいた妄想に付き合わなければならない。それはまことに私にとっては大きな不幸である。そして、これはそんな私の私のための、そして私と同様の問題に直面している人たちのための、日記である。

私は真実を見ている。彼らがこの文章に対して美しいと言うことができるのは、このような行為、対立的行為に走る時点で、私という存在の中に彼らの存在を入れ込むことができるということになるからであり、彼らの思惑が私の中に反映されることになるのであり、つまり彼らはその間だけ真実から目を背ける暇を得ることができるのである。こうして書くと「罪をわきまえてる」などという彼らのコメントが来るが、つまりそういうこと、私の内側に隠れ、私を操ろうとする点において、彼らは現実から目を背けることができるのである。彼らに対峙することは、彼らを私の内面に入れることになるのであり、すなわち私が対立する対象がなくなるかのように見えることになるのであり、対立すればするほどあさっての方向にその対象は出来上がってくるのである。彼らは、この、「あさっての方向」を作り出したがっており、そういう願望が「美しい」等のコメントに表れているのである。

彼らがいかに低劣であるか、ここまで書けばおわかりいただけるであろう。

2023. 11. 1

低層音楽幽界との繋がりか。

私の哲学的観念の発展に伴って、それを誤解する彼らの反応の表面において、そのことがはっきりとわかる。なぜなら、私はいつも程度の低い彼らを相手にせざるを得ないからであり、そのような顔を向けるこの私と考えるこの私とは同じものと認識されているからである。どんなにピュアな観念が私の思考を浮き沈みしても、彼らにとってのいつもの顔が、この私の観念に帰属するものとして認識される。

要するに、私は何か滑稽で間違えたことを考えている、その方向に突き進んでいると彼らはみなすのであるが、彼らは私の観念・概念を理解しているわけではない。夢想というその「方向性」にあるものは全て、取るに足らないものである、彼らにとって邪魔できるものである、と認識されているに過ぎない。彼らは私の偉大なる観念に全く近づくことはできない。低層より足を引っ張ることしかできない。

しかしただそれだけのことが、どれほど私の自然な思考活動の展開を妨げていることか。書けば書くほど、彼らのそのような働きを認めたことになり、ますます思考ができなくなるというわけである。だから逆に私はこのことを思考の練習に使い、そして禍をもたらすものの摘発を行おうと思う。真理は全てに現れているとかなんとか言ったような格言のようなものがあるが、私はそれを信じたい。彼らはなぜこんなにも低劣な輩であるのかという問題も、私にとっては真剣な問題である。



その上で話を進めよう。独我論的絶対過去というものは存在するのか。それとも真の過去においては、独我論的な立場は全く否定されてしまうのか。私は後者が正しい考えであると判断する。独我論的過去とは、「落とされた概念」によって、すなわち真時の忘却によって成り立つことのできるものなのではなかろうか。しかし「概念」の忘却とはどのように可能なのであるか。ここでは自己を自覚において忘却させねばならないのである。それは単なる忘却ではない。その自覚があっての忘却なのであり、ここでは意志というものがどこの場所にあるのかという問題が生じる。私の意志こそが意志なのか、それとも忘却によって生じた私そのものの意識とは異なる無意識にあるものが自己の意志なのであるか。*1自覚における忘却とはまことに不思議な問題である。自覚においては時は超えられている。しかし忘却においては我々は時の中にある。

派生して次のような問いに入ることができる。時を相対化するしかも時の中において起きるその観念は一体どこに自己自身の場所を持つのであろうか。我々が歴史的に時間を、しかも時間の中において眺めることのできるのは、何によって可能なのか。この観点・視点は一体何ものであるのか。時を眺めるものは、時に干渉する者でもある。我々は時の中にあるばかりでなく、そこにおいて行為可能である。行為可能である存在こそが現在というものを持つのであって、結局はそれによって「実体味のある」過去というものを持つことができるのである。行為は概念によってのみ可能であり、実体へ網の目を巡らすのは概念なのである。世界を世界として把握しその中に自己の位置を行為的表現的に定めることができるのは概念を持つ存在のみである。単に「その内」に存在するものは、このような世界をある体系を以って覆う網というものを持たない。それは網を持つのではなく、「網付けられている」とでも言うことができる。




脳のキャパオーバーのため、ここまで。

以下断章・メモ。

独我論の問題がまだ解決されていない。独我とはむしろ他我があるためにはそうでなければならないというものではないだろうか。 

・概念の忘却はむしろ、概念の自己実現のために必須の事象ではないか。絶対過去というものは存在するが、普通の過去が絶対過去でないところにも真実味が持たされることにおいて忘却が現れる。そしてこの真実味は被造物に与えられた特権のようなもので、それがために我々は無数のパラレルワールドの中の一つの「バイブル」*2のなかに生きることができる。真の絶対過去というものは、パラレルワールド全てを含めた更なる全宇宙の発展性とでも言うべきものにおいて存在するもので、バイブル全体の過去未来を束ねたその外側に更に存在する時間の絶対一次元的何かというものが考えられねばならない。

*1:自己というものに意識と無意識とが存在することは様々な事実から明らかであろうが、無意識なるものが他者であり同時に自己であるという点は興味深くまたその点に注目する必要があるだろう。つまり自覚における忘却という問題を考えるためには、このような二重性が深く掘り下げて考えられねばならないと思うのである。

*2:次の動画参照。https://youtu.be/pnPLGKLgbII?feature=shared多分これ。2ちゃんねるスレのまとめである。

「現在しかない」のではなく、「過去」は実在する。「過去」はかえって「現在しかない」ことによって存在する。

過去という時はあるのではないか。しかしそれは過去自身によってではなく、現在における「概念」において存在することによって、かえって現在と断絶したものとして実在することができるのである。過去が単なる過去自身によって過去という実在であることはできない。かといってそれは現在の内に現在に従属するものとしてあるのではない。「概念」という矛盾的自己同一において、現在によって、しかも現在と絶対に分断した実在性が与えられるのである。だから、過去とは真の時であり、神ですらこれを超えて単なる現在とすることはできない。変更可能な過去とは未だ単なる「具体的内容」なのであり、真の実在的過去ではない。そのような過去は、現在という空間に従属したものとして存在する。しかし絶対過去を定義づけるのは、今ここにおける我における経験という事実のみである。しかし経験というあり方、例えば純粋経験に従属するものとして過去はあるのではなく、むしろこれによって過去は過去として、絶対に現在と分断されたものとして実在することができるのである。

我々の普通に認識する「時」というものは、パラレルワールド等の考えより、遡ったり異時空移転などが可能なものと考えられるが、しかし実際に、この秩序の内部においての常識においては、そのようなことは不可能なものと考えられ、絶対時間というものが考えられる。それは本当のところ事実でないにもかかわらずも何により可能なのかと言うと、現在における過去の「概念」がそうさせているのである。現在というものにおいて「概念」が、実際には具体的内容としてあり可逆的な「過去」というものを、不可逆的なものとして定義しているのである。「概念」は、実在にそれを覆う網を与えているものと考えられるのではないか。概念とはそれ自身において概念であるのに、しかも具体的内容を持つ、矛盾的自己同一的なものとしてある。わかりやすく言えば、概念とは、あるレベルにまで落とされれば、「具体的内容」すなわち非概念としての自己を持つ。しかしこの落とされたレベルのそれが概念視されることにおいて、すなわち真の時が忘却されることによって、我々は我々自身の普段生活するパラレルワールドを所有し、潜在的には他パラレルワールドと時空を超えた関係を保ちながら、顕在意識的には一つの歴史的空間を、各々が保持することができるのである。

強迫的責めから逃れるために

特に意味もなく「なんとなくそうなっていること」を無理矢理倫理規範だとみなしてきて、それに従い続けなければ彼らが私を責める、という状況がある。別に、はじめに言った行為は私にとっては規範でもなんでもないので、なんとなく別の時には「そうでないふうにする」こともあり、そしてそのこと自体にも特に無意識なのであるが、彼らは、「いやこういう規範があるのだ」として、私を責めてくる。そして、私のこの行為を、「君はこのような手抜きでいいのだ」として、次にこの行為を繰り返すときに、わざと「グチャっ」となるように内的操作をしてきて、そしてしかもそのようなあり方自体を「規範」として固定しようとする。君は「こんな手抜き」でなければならないのだ、と主張してくる。そもそも私はこんなところに規範など置いていないし(両方のケースで)、全てケースバイケースでその時々に柔軟にそれに適したやり方そして態度で物事をやっているだけなので、彼らの主張や私への干渉行為は全くの的外れである。しかし彼らの何とも言えない「責めに伴う快楽」の気が、私の精神をこの上なく攻撃し続け、私の自然な情念の流動を妨げる。情念というか思念とか思考活動と言うべきか。

彼ら、つまり私に取り憑くある古代ギリシャ人たちは、何事も、どんな意味のない「そうなっていること」をも、規範によって考えねば気が済まないようなのである。この心は少なからず病的であり、しかし彼らは強いられているというよりは意志によってやっているのだからむしろ犯罪的である。彼らの支配欲は今日もまた歪んだ形で、私の自然な日常行為を妨げ続ける。妙な規範意識、これが私を妨げ続ける大なるものである。妙というよりも犯罪的なのであるが。

またこれは彼らの被害妄想でもある。しかしそこには悪意がある。コントロールしようとする念がある。だから彼らの行為は防衛などというものではない。いずれにせよ、悪質なのである。

作業をさぼって書いた。以上今日の少し早い日記である。

精神の内側における「恒常的な責めの機関」

恒常的な責め機関*1を私の精神の内に作ろうとしているのが、彼らである。何かと因縁付けて責めてくるのであり、常に「お前が悪い」「お前が謝れ」等と言ってくる。特に取り上げるべき事由がなくとも、この私が悪いことにし、そのように巧妙にというよりも強引に乱雑に仕立て上げる。どんな些細なことでもきっかけになる。

今その一々について思い出すことができない。書いているときには、書いているモードに入っているため、そのような記憶が思い出されにくいのもあるし、もともとわざわざ思い出したくもないことがらばかりがある、ということもある。しかしこの場合、それらを思い出すことができればどんなにこの考察に有用であったことか。

恒常的な責めの機関というのは、私が彼らの持ち出す些細なことにまで「謝罪」することで、どんな些細なことでも私をそうやって責めること謝罪させることを正当化しようとするあり方である。どんなことに対しても、彼らはこの機関によって、事実を曲げ、優位に立つことができ、常に彼らは私の「上官」であることができる。言うまでもなく、彼らは私に対等の存在であり、決してそのような存在ではない。

私の人間学は、私自身の単一の精神におけるしかし内的霊世界的な人権の確保という点に端緒を置く。私は私を彼らから守らなければならない。それであって初めて私はまともな人間としてあることができる。普通に言われる倫理などというのは二の次のこと。まずはこの病的ないやむしろ犯罪的な「責め機構」を解体せねばならない。そのためには守護霊の根底からの改心が必要であることを私は認識する。やってもいないことを、やったのだと嘘をついて決めつけ、それに基づいて謝罪、しかも他の事柄とも絡めた紐付きの複数全的謝罪行為の要求(むしろ命令)をすること、こういったことを即刻辞めさせねばならない。恒常的責め機関においては、こうした犯罪行為を簡単に、機構的な流れの内で、うやむやにできてしまう。一度「そういう仕組み」ができてしまえば、彼らのこういう不誠実はあたかも正当であるかのような顔を、習慣の惰性により演出できてしまう。事実は、彼らがこのような機関を作ろうとする動機そのものにおいて、根底的に罪を犯しているのである。一々の事実がどうであるかよりも、機関のあり方が優先されるとき、彼らは事実に関係なく、私をあたかも正当であるかの顔を提げて、しかも空虚な事実未満について、私を責めることができる。だから彼らの「謝れ」コールには、事実の内実がないことが多い。例えば、私がある時特に何も考えることもなく精神をリラックスさせようと精神の奥山へ休息しに行くとき、彼らは「謝れ」「お前が間違っている」コールを全く具体的事実の指示・対象化抜きで行う。これは「恒常的な責めの機関」の賜物である。その動機は、私をこの機関の中に恒常的に拘束し、奴隷に対するごとく常に内容にかかわらず優位に立ち続けようとすることにある。これは隷属の論理であり、彼らはこんな恥ずべきあり方を自己の心理的基礎とすることについて、単純に恥ずかしくないのか、と私は思う。

そう考えると、彼らはそもそもなぜ、私にこのような隷属的態度を要求せねばならないほどに、守護霊的存在から程遠いのか、本来の役を果たさないのか、という点に疑問が至る。なぜ嘘をついてまで自己の存在を保たなければならないのか。なぜそこまでに弱いのか(もっとも憐れむべき意味はそこになく、ひたすら軽蔑されるべきものでしかないが)。一体何をこじらせればこういう風になるのか。私は真摯に彼らの不誠実・罪を問いたい。そして即刻彼らのこのような行為・習慣付けをやめさせねばならない。

*1:https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2023/04/24/225320 において書かれている「恒常性」ということと、この記事で書いている「恒常性」とは矛盾するように思われるかもしれないが、これは恒常ということの意味の違いから説明される必要がある。端的に言えば、物理的に恒常的なのが前者で、精神的構造的に恒常的なのが後者だということになる。私は物理的作用としての「責められ空間」とでも呼ぶべきような現象を内的には理解できていない。思い出してみれば過去にそんなことがあったような時期もあったと思うが。/ただ今日の記述で、過去から進展があったのは、「責め」がだんだん物理的なものに近づいて行っている点である。しかしこれも突き詰めて考えると、何か理由「らしきもの」に彼らの責めの根拠が置かれているらしいので、結局はここでの恒常性も精神的構造的なものであることになる。何と言うか、「こう責めれば何のことを責めているかわかるだろう」感を醸し出しながら責められる感じである。そしてまた、よく聞かれるのが「君は罪を認めるか」という声、奥山に入る時によく聞かれるセリフである。これは、少しでも応答すると、過去の様々な精神的出来事に紐づけて、謝罪を要求してくるものであり、そうしてみると、結局はこの全体的な恒常性は、物理的なものに近づいたとはいえ、やはり精神的構造的なものであることになる。