山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

普通の文章が頭に入らなくなったこと。それによる資格の剥奪

文章が嫌いになった人間にとって、文章的自己表現世界はもう開かれていない、それは閉じられている。その世界は私の前にはもう存在しない。どんなに偉大なものが、たとえまぐれによって書けたとしても、他人の普通の文章を読むのが苦痛であってしまっているような私にとっては、このような偉大な表現は果たして表現とすら言えるかどうか、疑わしい。しかし文章というごく一般的な世界的な世界を抜きにして、私のごく普通の人間的生存というあり方は考えられるのかと言えば、それもまたそうではないと言いたくなる。私は人間としての私をごく自然に考えようとするとき、ごく自然に、あんな文章もこんな文章も社交会話程度に普通に読みこなせる自分というものを想像する。しかし実際の私の能力はそんな基本的条件すら満たさないのだということを自覚してしまっている。そんな私にとっては、文章的世界は、何と言うべきか、私の人間としての私自身への信頼を脅かす何かであってしまっている。私はそれを当然のようにクリアしなければならないし、しかも実際にそれができないのである。私は自然な文章的社会に加わる資格を持たないが、しかしそこにおいて自己を表現しようと欲していることは確かである。しかし私はただ一つ、文章的世界に私を存在させる資格を与えることのできるある内的感触というものを有していることもまた自覚している。その感触によれば、私は未だ文章的世界に入り込むことのできる素質的な余地を残していることになる。しかし「面倒だから」普通の文章を読めていないのだ、ということにもなろう。この内的感触によって、私はこんな駄文を書き連ねることができているのであり、私の不能力は、この内的感情移入、一応持ち合わせた素質への信頼によって補われている。まどろっこしく書いたが、要するにちゃんと文章を文章として読むように訓練すればいいのではないか。当たり前のことである。しかしその当たり前の苦労が、どうしてこんなにも絶望的に億劫になってしまったのか。まるでわからない。こうあってはいても、やはり文章的世界は私から遠いのである。

以上書いたことは、首尾一貫していないようなところも含むが、徒然なる思考の過程をそのまま記したものなので、あくまでも日記としてみなすことにする、あしからず。

謙遜もどきの自己卑下の弊害。回り回ってくるんだ、こういうことでも。

大げさに自己否定などすると、結局後でそのツケが回ってくることになる。文章を書こうにも思念が妨げられて仕方ない。様々な霊の様々な思惑が私の思考を阻害する。これも私が大げさに自分を悪く言ったツケであるから、おとなしく受け取らねばならないのだろう。

この文章をブログにあげようと思ったそのとき、「これでいい」みたいな納得の念みたいなものが感じられた。彼にとっては、これのどこが都合が良いのだろう。

とにかく、うかつに自分のことを悪く言ってはならない。それは十分に気をつけねばならない。加藤諦三的に言えば、劣等感の強い人は、そのような自己卑下を真に受けて、より攻撃的に自分に対して接してくるようになる。自己卑下というものは、しかし、日常のどこに潜んでいるかわからない。妙な強迫的な行動は実際自己卑下の表現であることが多いだろう。日常が何かと重苦しく感じられるのは結局こういう意味のない自己否定が根底にあることが多いのではないか。

日常を振り返る一日記(?)

寝ているとき、そして目覚めたばかりの瞬間はよかった。しかしそこからあくび一つでもしようものなら、心はすぐさま失望に転じる。またいつものままのこのクチャクチャ。その他諸々。起きているときに遭う様々な身体的困難?が直ちに私にまとわりかかってくる。ああ、寝起きのうとうとの幸福よ。

こういったことが多くの日において繰り返されるわけである。

神はいともたやすく我々を裏切る。何が真実か。神の内にはない、諸君それぞれの内にある。

全ての人にこの言葉を贈ろう。自分の感覚だけが真実である。神は私を裏切った。神は間違っている。守護霊は嘘をつく。つき通そうとしている。全ての真実はそんなところにはない、全部私の内にある。たとえ守護霊、そのさらに守護霊といえども、小さい心のこだわりを必ず備えているものらしい。サニワといっても、他人のサニワに頼ってもいけない。真に私の私によるサニワのみが意味のあるものであり、指導霊、守護霊の言っていることは、本当にあてにならない。彼らは自分の都合のために、簡単に嘘をつき、何かと言えば自分の立場を利用して全てを誤魔化し通そうとする。間違ったことを言っていても、真実味を、立場を利用して持たせようとし、全ての責任を回避しようとする。この世に本当に都合の良いのは「立場」である。立場さえあれば、たとえ嘘でも何でも、してよいのである。それこそが犯罪の温床ではないのか。なぜ少しでも我が身のことを振り返ろうとせぬか。

それを褒めるあなた方の「動機」は?責める道具ではないか

守護霊の霊性の低さが今日も現れている。私は今日の選択に心から後悔しており、二度とこんなことはすまいと思っている。買わなければよかった。本当に、本当に、心から後悔している。この人たちは道徳というものを何だと思っているのだろう。子供以下、獣以下。霊性低し。中の人「これで哲学あげて」だって。

今日のこの選択に、彼らは美しいという評価を与えた。しかしその心はただの怒り、八つ当たりなのである。この矛盾を彼らは道徳的にどう説明するのか。幼稚な人間の八つ当たりと何も変わらない、と言うよりも、そのものである。

私の今日の選択は、「思いやり」を動機としていた。そのことが彼らには美しいと見えた。それだけの話ならば何もないことである。しかし彼らはそれを八つ当たりの心において評価行為するのである。何か類型化され都合良く固体化された形骸的な「思いやり」観念というものがあって、それに従わなければ「許さない」とする、そのようなあり方である。それは結局、客観的に道徳的であるのではなく、個人の勝手な他虐的なエゴにすぎないのである。要するにこの私が自虐的であることが、彼らにとっての望ましい事実なのである。彼らにとっての私の「思いやり」とは、私が自虐的であることであり、私に真に思いやりが実質的にあることではない。それはただ単に形骸化した、しかしエゴの都合に用いることのできる全く意味のない事実なのである。これが道徳的観念とはとても言えまい。

こうやって書いても、読む人には何のことやら伝わりにくいとも思うが、ともかくこれをもって今日の日記とさせていただく。彼らの霊性の低さをこの身に直接感じながら。

陳腐は私を呪う

本当に非凡なものを集めよう。私を妨げる陳腐を振り落として、私は高みに登ってゆこう。陳腐なるものには目もくれず、進んで行こう。全てのものは発見のためにある。その前提を失わせるものが、ある陳腐なものに関わってくる陳腐な態度である。雅楽は、私にとって陳腐ではなかったはずだが、陳腐な態度の汚染によって、陳腐なものの仲間入りをしてしまった。全てのものは発見のためにある。それが成り立つためには、それが成り立つなりの態度によってこれを陳腐ならざるものに保つ必要がある。ところが陳腐な態度を持ってこれに関わると、それは陳腐なものに一変する。当たり前のことである。私のなかにはステレオタイプ雅楽が残ることになった。彼らの理解は陳腐さに基づいている。全てのものは発見のためにある。それが成り立つには成り立つなりの心構えを持ってそれに接しなければならない。さあ陳腐を振り落として、高みにのぼってゆこう。

哲学のメモ

個性的意味付け作用。これは一般的なものの方向の極限であり、それがまさに個性を意味的個性付けるのであり、すなわちそれは行為の場所にそれを持ってくるということである。最個性とは最一般のことである。全てのものは「ある何か」であるのだが、その述語をある物に与えるとき、それは個性的に意味付けされ、すなわち行為の場所に接続されるのである。実際に、「ある物はある何かである」と言明されるのではない。それがそれとして現在において尖端的に直接認識されるとき、そのそれが何たるかが世界において、行為的に明らかになるのである。どこにも転がっている石ころ一つにも全て意志が宿っている所以である。




参考動画:https://youtu.be/PnwyycLPCUg?feature=shared
(2023年9月4日アクセス)