山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

「限定三次元に関する極めて粗いメモ」に関して、再考したこと。

https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/08/10/155808

この記事の一段落目の後半において、思考が不明瞭なところがあったので、ここではそれについて再考する。まずは引用文を貼り、そこからこれについて議論してゆく。


引用ここから。

三次元が抽象観念化するということは、つまり観念の体系の存在空間的に、無限次元の立場からそれがそこにおいてあると考えられるということである。それのその領域における限定性は、このクオリアにおける瞬間瞬間の三次元の限定性と一つのことであると言えないだろうか。

引用終わり。


三次元空間という概念自体が限定されてしまう、ユークリッド的空間の延長の無限次元的空間の概念ということと、我々が現に感じている三次元性のただの即物性というか瞬間性、部分切り取り性というものが、同じところから来るのではないかと発想したのだが、この考えが正しいかどうかわからない。我々は常に意識の背景というものを感じ、同時にこの三次元的制約空間に対している。この直観、つまり三次元に呑み込まれない直観がどこから来るかと考えると、もともとそのような概念が先天的に与えられているということからと考えられる。単に概念として与えられているのみならず、実際の直覚上の感覚的事実としてもそのことが言え、常に三次元的なものは、その宇宙的全体からではなく、限定的な視界の空間というところから考えられるのであり、しかもそのことを意識の背景というもののいかにも簡単な即物的な自覚によって把握することができるということは、この把握は単に視界が三次元的な別の観点に移り変わってゆくものに過ぎないというようなものではなく、三次元的なものそのものの包括そのものの直覚、要するにメタ的な立場の自覚として考えられるということである。視界の三次元的移り変わりとは本質的に別次元のものとして意識の背景を直覚するということは、三次元的認識の局所性をはじめからその本質的な意味において自覚しているということではなかろうか。一々の視界の移り変わりに、デジタル的に(ほんとうに)、「これは三次元」、「これは三次元」、というデモ音源の音声ラベルのようなものが貼り付けられることによって、三次元空間の中に我々の身体が拘束されるという現実が成り立っていると考えられるのである。だがそれは、三次元的な制約がどこまでも局部的なものであることを隠すための契約的な操作であり、この契約を普遍的なものと信じることから、我々は三次元空間の不動性を感じるようになる。だが我々は観念として三次元以上のものを自覚するのだが、それは実際そういう空間に我々の自己が居るからである。単なる観念は単なる観念でなく、その客観的にある状態の自覚であると考えられるために、やがて実体の世界においてもこの観念というものが表現されるのである。無限次元とは単なる観念ではなく、三次元空間へのメタ的把握という原経験からの直知として理解できないだろうか。